新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
上総大多喜城 (模擬復元)
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
案内板 (千葉県立中央博物館大多喜城分館案内板)
大多喜城の歴史
上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川四天王の1人である本多忠勝が この地に0万石で封じられました。
城主は、本多氏3代のあと、阿部氏等の譜代大名が入りましたが、元禄16年(1703)の松平氏の入城以降は9代続き、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えました。
千葉県立中央博物館 大多喜城分館
千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された天守閣づくりの特色ある歴史博物館です。常設展では「房総の城と城下町」を主題とした展示を公開しています。
そのほか、この地方に残されている優れた文化遺跡を紹介する役割も果たしています。また、資料の調査・研究・保管・展示を行い、県民の生涯学習に寄与することを目指しています。
参考文献Webサイト
大多喜城 Wikipedia
当館について 千葉県立中央博物館大多喜城分館
大井戸
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 大多喜高校敷地内
案内板 (千葉県教育委員会・大多喜町教育委員会 案内板)
県指定史跡
上総大多喜城本丸跡
附大井戸薬医門一棟
昭和46年3月26日指定
大多喜城は夷隅川の蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に位置する。城郭としての要部は西側の山塊が東にのびた突端に縄張りした近世城郭で平山城の型である。
城内は本丸、二の丸、三の丸に分れ、本丸の天守閣は天保14年(1843)7月3日焼失した。本丸跡6420平方メートルは急斜面に囲まれ、周囲には土塁が残っているが、当時の石垣や建物はない。
この城は本多平八郎忠勝が10万石でこの地に封ぜられた慶長年間(1596-1614)にでき上ったものである。なお 二の丸跡にある県立大多喜高校の一隅には、周囲17メートル、深さ20メートルの大井戸と薬医門とが当時の面影を残している。
平成24年3月31日
千葉県教育委員会
大多喜町教育委員会
案内板 (千葉県教育委員会・大多喜町教育委員会 案内板)
千葉県指定史跡
上総大多喜城
本丸跡附大井戸
昭和41年5月20日指定
天正18年(1590) 本多忠勝築城の際つくられたもので「底知らずの井戸」といわれている。周囲17メートル、深さは20メートルである。
当時は井戸車16個でくみあげられたという日本一の大井戸である。
平成23年10月
千葉県教育委員会
大多喜町教育委員会
参考文献Webサイト
大多喜城 Wikipedia
当館について 千葉県立中央博物館大多喜城分館
薬医門
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 大多喜高校敷地内
案内板
上総大多喜城薬医門(千葉県指定有形文化財)
この門は大多喜城内建造物唯一の遺構である。本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門である。明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿により、功績のあった小高半左衛門に払下げられたが、大正15年、曾孫にあたる県立大多喜中学校第1回卒業生小高達也氏より、同校の校門として寄贈された。
昭和40年代年当初に始まる大多喜高等学校新校舎建築の際に、いったん解体保存されていたが、同48年、大中第26回卒業生中村茂氏の復元設計により建造されたものである。
案内板 (千葉県教育委員会・大多喜町教育委員会 案内板)
県指定史跡
上総大多喜城本丸跡
附大井戸薬医門一棟
昭和46年3月26日指定
大多喜城は夷隅川の蛇行による曲流に囲まれた半島状の台地の西北に位置する。城郭としての要部は西側の山塊が東にのびた突端に縄張りした近世城郭で平山城の型である。
城内は本丸、二の丸、三の丸に分れ、本丸の天守閣は天保14年(1843)7月3日焼失した。本丸跡6420平方メートルは急斜面に囲まれ、周囲には土塁が残っているが、当時の石垣や建物はない。
この城は本多平八郎忠勝が10万石でこの地に封ぜられた慶長年間(1596-1614)にでき上ったものである。なお 二の丸跡にある県立大多喜高校の一隅には、周囲17メートル、深さ20メートルの大井戸と薬医門とが当時の面影を残している。
平成24年3月31日
千葉県教育委員会
大多喜町教育委員会
参考文献Webサイト
大多喜城 Wikipedia
当館について 千葉県立中央博物館大多喜城分館
大手門跡と八幡神社
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜382先ほか
案内板 (大多喜町案内板)
八幡神社
この神社は、弓矢の神ともいわれる誉田別命(ほんだわけのみこと)(第15代応神天皇)を祭神としています。
養老2年(718) 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮から分祀して創建されたといわれる町内船子八幡神社から、さらに文明8年(1476) 現在地に隣接する栗山へ分祀されたもので、城の鎮守とされてきました。近世になって、城内二の丸に移された模様で、城絵図にも描かれています。
廃城後の明治10年(1877) 県庁に請願して、三の丸(現在地)へ移し、翌11年に社殿が完成して大多喜村の村社とされてきました。
歴代の城主も篤く崇敬したといわれ、廃藩のときに奉納された大多喜城大絵図額は、すぐれた絵図で、町指定文化財になっています。
平成2年3月
大多喜町
大手門(模擬)
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜 大多喜駅南方約60m
案内板 (大多喜町案内板)
大手門
「大手門」は、ここから北西 約150メートルの所に大多喜城の正門として建立され 築城当時の慶長年間には 吊り橋がかかっており 人工的に持ち上げるようになっていました。
又、自然の要塞に さらに人工的防御施設を施し 門の両壁は高い土塁と石垣で固められ、外壁は水成岩が垂直に削り取られていて 常に水分を含み いかなる方法をもってしても
侵入できないようになっていました。
尚、現在のこの門は、昭和57年5月に新たに建設され、町民から名称の募集を行い「大手門」と命名されたものであり、その後、傷みが進んできたため、平成21年9月に街なみ環境整備事業により修景を実施したものです。
大多喜町
御禁止川
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜
案内板 (大多喜町案内板)
御禁止川(おとめがわ)
大多喜城の本丸下を流れるこの川は、城主が江戸時代に魚を獲ることを禁止したので御禁止川と呼ばれていました。城主が参勤交代の折には、御禁止川の「むらさき鯉」を、将軍家に檜のたらいに入れて、生きたまま献上したといわれています。
大多喜町
メキシコ通り
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜 字三の丸~本丸下
1609年9月30日深夜 フィリピンのマニラからメキシコのアカプリコに向かうスペイン帆船(サン・フランシスコ号)が暴風雨に遭い 大多喜藩の現御宿町岩和田海岸沖で座礁した 岩和田村民は総出で救助活動を行い 乗組員373名中317名の生命を救った。
この遭難の報を受けた ときの大多喜藩主・本多忠朝は 遭難者(漂着者)を手厚く保護をした。遭難者の中に 前年マニラで徳川家康の命で訪ねた三浦按針の貿易交渉相手であった前フィリピン総督のロン・ロドリゴがいた。
1ヶ月余を大多喜藩で過ごした遭難者は江戸に向かい 翌年の1610年8月1日 相州の浦賀湊から三浦按針が家康の強い要望で製造済であった120トン帆船(改名されてサン・ブェナ・ヴェンツーラ号)で田中勝介ら日本人も乗船しアカプリコに向け出帆した。
当時 浦賀湊は国際貿易港であってスペイン船が寄港しており、秀吉時代とは異なって家康は漂着船の積荷の没収を禁じ乗組員を保護する政策に転じていた。
昭和53年(1978)11月、国賓として来日したメキシコのロペス大統領が大多喜町を公式来訪したのを記念し 大多喜町では三の丸から本丸下までの道路を 「メキシコ通り」と命名し 昭和62年(1987) 歩道を整備した。
参考文献Webページ
江戸初期スペイン船漂着 本サイト「徳川家康ゆかり」内ページ
メキシコ記念公園 本サイト「徳川家康ゆかり」内ページ
日西墨比貿易港之碑 (横須賀市東浦賀) 本サイト「徳川家康ゆかり」内ページ
鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交』2010年 新人物往来社刊
鈴木かほる著「スペイン外交と浦賀湊」『郷土神奈川52号』2014年2月 神奈川県立図書館刊―神奈川デジタルアーカイブ
二の丸公園の梵鐘と鐘楼
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜(二の丸公園)
案内碑
梵鐘・鐘楼由来記
この梵鐘の原型は 享保14年(1729) 伝えによれば 無縁の菩薩を弔うため 大田喜城下の老若男女が連日 大田喜領内の村々を托鉢し 浄財を募り
江戸の名工小幡内匠藤原勝行によって制作され 城下新町無縁堂の丘に鐘楼を建立し 鐘声は美音にして 大田喜城下を中心に4里四方響きわたり 大多喜八景無縁堂晩鐘として名をなした名鐘であった
昭和18年 太平洋戦争の急を救う一助として供出され その後 昭和58年 尾本信平 尾本芳次 尾本要三 尾本安正の4氏によって復元し 鐘楼建設基金と併せ
大多喜町に寄贈されたものである 鋳造にあたって 大多喜町久保 渡辺包夫氏所蔵の無縁堂梵鐘の拓本をもとに三井金属工芸株式会社の手により完成したもので
元の鐘楼は昭和18年に梵鐘供出後 老朽化し廃絶した
この度 復元された梵鐘を保存するため 大多喜町堀之内熊野山妙光寺住職および檀徒の厚意により 同寺の鐘楼が大多喜町に寄進され 新たに旧大多喜城内二の丸公園に移築されたものである
工事にあたっては 次の方々より浄財を募り完成されたものである
昭和60年3月
鐘楼建設寄付者名(以下省略)