徳川家康と三浦按針
徳川家康略年譜

区分 西暦 和暦 年令 事項
誕生 1542 天文11  1才 12月26日 三河岡崎で誕生 → えな塚 幼名竹千代 父松平広忠(17才) 母刈谷水野忠政娘(於大 15才) → 伝通院
幼年母生別 1544 天文13  3才 今川義元方の刈谷水野忠政没後の当主水野信元(於大兄)が織田方となり 父広忠が母(於大)を離縁したため 9月 母は刈谷城に帰り 母と生き別れ
1545 天文14  4才 父広忠が今川方の田原戸田康光娘と再婚
人質少青年時代 1547 天文16  6才 9月 人質として駿河の今川義元の許に赴く途中 義母の父田原戸田康光の裏切りで 尾張の織田信秀の許に送られ 織田の人質となった
1549 天文18  8才 3月6日 父広忠が暗殺された(24才) 今川方(太原雪斎)が安城城を攻略し 織田信広(信秀庶長子)を生け捕り人質に
11月 織田と今川の人質交換で 尾張より岡崎に帰り 同 7日 駿府の今川義元の許に送られた
1555 弘治元 14才 3月 駿府の今川許で元服 松平次郎三郎元信と称した
1557 弘治 2 16才 正月15日 今川義元姪・瀬名義広(関口親永)娘於瀬名(築山殿)と結婚
1558 永禄元 17才 2月 今川から織田に通じた寺部城主・鈴木重辰を攻め 初陣を飾る
1559 永禄 2 18才 長子信康誕生 母は於瀬名 松平元康と改名
1560 永禄 3 19才 5月18日 今川義元上洛の先鋒として 尾張大高城への兵糧入れに成功
5月19日 織田信長が今川を桶狭間で破り 今川義元討死(42才) 元康は大高城から岡崎大樹寺に逃れ 松平家墓前で自害を決意したとき 大樹寺住職登誉上人から『往生要集』の「厭離穢土 欣求浄土」をもって諭され 平和な世を築くことを決意した
5月23日 今川が放棄した岡崎城に帰り 長かった人質から脱した
三河時代 1561 永禄 4 20才 春 織田信長と結び 今川氏真と絶った
1563 永禄 6 22才 3月2日 長子信康と信長娘徳姫が婚約 7月6日 松平家康と改名 9月 三河一向一揆の争乱が起こった
1564 永禄 7 23才 3月28日 三河一向一揆の争乱が終わった この年 ほぼ三河全国を統一した
1566 永禄 9 25才 12月29日 徳川復姓の勅許を得 従五位下に叙せられ 三河守に任ぜられた
遠駿甲信への拡大時代 1570 元亀元 29才 6月 居城を岡崎より遠江浜松に移した 同月28日 近江姉川の戦 信長を援けて朝倉・浅井両氏の軍を破った
1572 元亀 3 31才 12月22日 遠江三方ヶ原の戦 自らの短慮で武田信玄に大敗 多くの家臣を失った 同じ過ちを二度と繰り返さないため 大敗直後の苦渋に充ちた しかめっ面 を描かせた → しかみ像
1575 天正 3 34才 5月21日 三河長篠の戦 信長と連合して大いに武田勝頼を破った
1579 天正 7 38才 4月7日 第3子秀忠が誕生 母は西郷氏
1582 天正10 41才 3月11日 勝頼死し 武田氏が滅びた 5月21日 浜松を出て西上 安土城の信長を訪問
6月2日 信長の勧めで泉州堺を訪問時に 信長(49才)が京都本能寺で斃れたことを知り 決死の伊賀越えを経て 伊勢から海路にて 同4日 三河に帰った
1584 天正12 43才 3月より 小牧・長久手の戦 織田信雄を援けて羽柴秀吉と尾張で戦った
1586 天正14 45才 2月上旬 秀吉との和議成り 5月14日 秀吉の異父妹朝日姫(南明院・44才)と結婚した 10月27日 大坂城にて秀吉に会った 12月 浜松から駿府に移った
1590 天正18 49才 秀吉の小田原征伐に従い 北条氏滅亡後 その旧領関東6箇国に移され 8月朔日 江戸城に入った
関東経営時代 1596 慶長元 55才 5月8日 内大臣に任ぜられた
1598 慶長 3 57才 8月18日 秀吉歿し(63才) 家康を筆頭とする豊臣氏五大老・五奉行の合議政治始動 秀吉による朝鮮出兵を終結撤兵
11月 畿内潜伏中のスペイン宣教師・ジエズスを伏見城に招き 金銀アマルガム製錬技術導入を目論見 スペイン商船の相州浦賀へ招致を企てた
1600 慶長 5 59才 2月 木活字10万本を臨済宗僧侶・閑室元佶に与え 天下統一後政治のため 『貞観政要』和刻本(慶長版・伏見版)刊行
4月 ウィリアム・アダムス(三浦按針)ら乗船のリーフデ号が豊後(大分)佐志生の黒島に漂着
5月 大坂城で 拘留した三浦按針を尋問し 能力を評価 大砲など積荷の武器を没取するも 後に対価支払
6月15日 大坂城を出て 会津の上杉景勝征討に向い 下野小山にて石田三成の挙兵を知り 引き返して東海道を西上し 9月15日 関ヶ原の合戦に大勝 同27日 大坂城に入った
幕府創立時代 1601 慶長 6 60才 三浦按針を外交顧問として重用し 江戸(東京都中央区日本橋)に屋敷を与えた
8月 マニラ発のセレラ・ジュアン・エスケラ号が大多喜浦漂着 乗組員保護 三浦按針製造80トン船を提供し マニラに帰国させた(鈴木かほる説)
1603 慶長 8 62才 正月6日 従一位に叙せられ 2月12日 征夷大将軍となり右大臣に任ぜられた この年 江戸市街を改修した
1604 慶長 9 63才 1604~1605年頃 三浦按針に 伊東(静岡県)の松川河口で日本初の洋式帆船(80トンと120トン)を建造させた (鈴木かほる著『史料が語る向井水軍とその周辺』によると 関ヶ原合戦の直後)
1605 慶長10 64才 4月16日 征夷大将軍を辞し 世子秀忠公が将軍宣下を受けた
三浦按針に 相州三浦郡逸見(神奈川県横須賀市)に知行地を与え 三浦按針と名乗らせた(青い目のサムライ誕生)
大御所時代 1607 慶長12 66才 2月29日 江戸城を去り 駿府に隠退した
1608 慶長13 67才 6月15日 ソテーロの進言でマニラに派遣された三浦按針が フィリピン総督ビベロと交渉 獄中の日本人200人を釈放 日本へ送還
1609 慶長14 68才 9月 任期満了フィリピン総督ビベロ乗船の船が岩和田沖(御宿町)漂着 三浦按針製造120トン船で浦賀から帰国
1611 慶長16 70才 後陽成天皇御譲位 後水尾天皇御受禅の大儀が行われた 二条城で豊臣秀頼と会った
1614 慶長19 73才 7月 京都方広寺大仏殿再建の供養 鐘銘につき豊臣氏との間に紛糾を生じ 11月 大坂冬陣開始 12月22日和議成立
1615 元和元 74才 大坂方再挙 5月大坂夏陣 豊臣氏滅亡 7月以後 武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸寺法度等を制定した
1616 元和 2 75才 正月21日 田中にて発病し 駿府城に帰って加療 3月17日 太政大臣に任ぜられ 4月17日 薨去 久能山に葬った
薨後 1617 元和 3 薨後 1年 2月21日 東照大権現の神号を贈られ 3月9日 東照社に正一位を賜った 4月8日 下野日光山に移遷 同1日 日光東宮社の正遷宮が行われた
1645 正保 2 薨後29年 11月3日 東照社に宮号宣下 東照宮に改めて正一位を賜った