新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
岡崎城
撮影:2015-06-12
名 称
岡崎城 別名:龍城・龍ヶ城(たつがしろ)
所在地
愛知県岡崎市康生町561
築 城
康正元年(1455)頃
復興天守閣
昭和34年(1959) 鉄筋コンクリート3層5階
案内板
岡崎城
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正(だんじょう)左衛門頼嗣(よりつぐ) 稠頼(つぎより)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに、家康の祖先である松平清康(きよやす)が入城し、本格的な岡崎城を構えた。
天文11年(1542)12月26日 徳川家康は ここ 岡崎城で誕生した。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重(やすしげ)系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝(ただかつ)系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと、伝えられる。
現在の天守閣は、昭和34年(1959)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる。
参考Webサイト
岡崎公園 愛知県岡崎市公式観光サイト
しかみ象(家康公)
撮影:2015-06-12
案内碑
しかみ像
寄贈者 徳川宗家十八代当主 徳川恒孝氏
制作者 小林道明氏
世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわにした珍しい肖像画です。
このしかみ像は、かの画像を基にして制作された石像です。
元亀3年(1572)10月3日、二万七千の大軍を率いて甲府を出発した壮年 武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず
三方ヶ原に青年 家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。
平成19年11月10日
東照公遺訓碑
撮影:2015-06-12
名 称
東照公遺訓碑
所在地
岡崎城入口 右前方
建 碑
昭和11年4月
碑文 案内板
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。
慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな
東照公遺訓碑由来 案内板
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月
98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の爲に 時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には龍城を象徴する龍を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11月4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、また、岡崎市制七十周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
昭和61年12月26日
岡崎市長 中根鎮夫
家康公遺言碑
撮影:2015-06-12
名 称
家康公遺言碑
所在地
岡崎城入口右前方 東照公遺訓碑左手
建 碑
昭和39年10月25日
碑 文
わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし
元和二年四月十七日
家康薨七十五才於駿府城
大樹寺五十七世 宏天謹書
徳川家康公銅像
撮影:2015-06-12
案内板
天文11年(1542)12月26日 岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃 人質として苦難の道をあるき、自立した後は 全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
以後 持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年(1616)4月17日 75才でこの世を去った。
この銅像は 昭和40年(1965) 家康公350年祭を記念して 建てたものである。
若き元康(家康)騎馬像
撮影:2018-04-11
案内碑
家康公生誕450年祭記念像
このモニュメントは、平成4年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として 450年祭実行委員会が市内外から浄財を募って設置し 岡崎市へ寄贈したものである。
若き元康(徳川家康)の騎馬像は、城を背にし やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている。背景の石垣と滝は治世を象徴し 元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地
岡崎の土中から盛り上がる様を示す。
モニュメント原案
三州岡崎葵市民洋画家荻太郎氏(新制作協会会員)
騎馬像を含む全体の原型制作
彫刻家橋本裕臣氏(新制作協会会員)
騎馬石像制作
石彫刻家牧野正次氏(二科会会友)
平成6年12月26日
家康公生誕450年祭実行委員会
家康からくり人形
撮影:2015-06-12
案内碑
岡崎公園時計塔
この時計塔は、徳川家康公のふるさと岡崎にふさわしい和風のからくり時計で、定刻になりますと 家康公のからくり人形が現われて、照明と音響の演出で能を舞います。
平成2年3月21日
岡崎市
能楽と茶道
家康公は、能や茶道に興味があったということで、能を舞うからくり人形の外に、岡崎公園内には 能楽堂と茶室が設けられている。
ただ、家康公は茶道で使う いわゆる名器には興味がなく 蒐集することもなかったらしい。
龍城神社
撮影:2018-04-11
江戸時代には、岡崎城内に 岡崎東照宮と 本多忠勝を祀る映世神社があった。
しかし、明治になって合祀され、岡崎城の別名・龍ヶ城に因んだ「龍城神社」に改称された。
本多平八郎忠勝公銅像
撮影:2018-04-11
本多平八郎忠勝(1548-1610)
元亀2年(1572)の「三方ヶ原の戦い」と「二股城の戦い」の前哨戦といえる「一言坂の戦い」で殿(しんがり)を務めたとき、敵の武田信玄近習・小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と、落書きで称えられたといわれる
初陣は13歳(桶狭間の戦いの前哨戦・大高城兵糧入れ)、生涯57度出陣し無傷を誇った徳川四天王の一人、家康の関東移封では上総国夷隅郡大多喜10万石を与えられた
槍が得意で、愛用の2丈(6m)超の長槍は、飛び回る蜻蛉(とんぼ)を切り落としたことから「蜻蛉切り」と呼ばれた
子孫は、江戸中期から明治維新まで、家康公生誕の城を守る岡崎藩主であった
東照公えな塚
撮影:2015-06-12
案内板
えな塚
この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした
東照公産湯の井戸
撮影:2015-06-12
案内板
産湯の井戸
天文11年(1542)12月26日
徳川家康公が岡崎城内で誕生した
この井戸の水を汲み、産湯に使用した
三河武士のやかた家康館
撮影:2015-06-12
「三河武士のやかた家康館」は、徳川家康公、その先祖(松平家)、家康公に仕えた三河武士に関わる展示を行っている
地階は常設展示、1階展示室と特別展示室は企画展示となっている
参考Webサイト
岡崎公園 愛知県岡崎市公式観光サイト
二の丸能楽堂
撮影:2018-04-11
家康公は、今川の人質時代から能に親しみ、江戸時代には、能は「式楽」となり、幕府の年中行事・儀礼に欠かせない重要な位置を占め、代々の将軍は自ら謡い舞ったといわれています
参考Webサイト
珍しい野外音楽堂 岡崎市サイト
大手門
撮影:2015-06-12
左写真は、国道1号に架かる歩道橋階段から撮影 丸に三つ葉葵の紋が描かれている
浄瑠璃姫の墓
撮影:2018-04-11他
岡崎を舞台とした浄瑠璃
世界無形文化遺産の文楽(人形浄瑠璃)と歌舞伎の源流とされる「浄瑠璃」
岡崎を舞台とした源義経と浄瑠璃姫の悲恋物語「浄瑠璃姫物語」「十二段草紙」に因んだ浄瑠璃姫の遺跡が岡崎の各所に点在するが、岡崎公園の一郭(国道1号沿で東隅櫓近く)に「浄瑠璃姫の墓」が建っている。
浄瑠璃姫の草庵跡に、かって浄瑠璃寺と呼ばれる寺院が建てられたが、岡崎城の敷地となり、さらに岡崎公園となった。
現在、浄瑠璃山光明院(俗称:浄瑠璃寺)が、 岡崎公園と国道1号を挟んだ反対側の地域内の岡崎市康正西3-25にある
案内板
浄瑠璃姫の墓
薬師如来の申し子である浄瑠璃姫は源氏の御曹子義経と別れた後、恋慕の余り、菅生川に身を沈めてしまう。姫の墓は平泉の方に向け建てられている。その姫の庵があったところが、岡崎城の浄瑠璃曲輪といわれ、瑠璃光山安西寺である。のち光明院と改められる通称「浄瑠璃寺」である。
家康公と浄瑠璃姫
家康公と浄瑠璃姫との関連は、次の2点のようです。
1.浄瑠璃姫が住んだ草庵跡が岡崎城の敷地となった
2.共に、母親が奥三河の鳳来寺薬師浄瑠光如来に願掛けして授かった
浄瑠璃(大修館書店刊「社会人のための国語の常識[第2版]より)
室町時代の末頃に、琵琶の音や扇子を打つ音に合わせて、物語に節をつけてうたうことが行われ、その一つに『浄瑠璃姫物語』があった。一名を『十二段草紙』ともいい、浄瑠璃姫と石若丸とのことを語った恋の物語であるが、これがもととなって、その節だけが残り、さまざまな物語をつけてうたったことから、「浄瑠璃」の名が起こった。平曲の節回しであったと思われる。
そのことは、もともと『十二段草紙』が平家物語の十二巻にならったのでもわかる。そこへ永禄5年(1562)の春に。三味線が琉球から入って来て、やがてそれが浄瑠璃の伴奏楽器となった。一方、あやつり人形が古くからあり、これが浄瑠璃と合体して人形浄瑠璃が始まり、近世演劇を担う一つの芸術となった。
貞享年間(1684~1688)に至り、浄瑠璃作者に近松門左衛門が現れ、その語り手に竹本義太夫が出現して、浄瑠璃は新しい時代に入る。
参考Webサイト
浄瑠璃みなもとの地・岡崎 「岡崎ルネサンス」サイト