新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
スペイン船漂着の概要と時代背景
鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交』
2010年 新人物往来社刊
ロドリゴらが帰還に使った帆船
「サン・ブェナ・ヴェンツーラ号」模型
縮尺1/10
通常は伊東市役所内に展示
観音崎フェスタ(横須賀市)に特別登場
撮影:2010-11-03
江戸初期 スペイン船上総国大瀧(大多喜)浦への漂着は2回
【1回目の漂着】
[状況]
慶長6年(1601)8月上総国大瀧浦漂着
慶長9年(1604)6月2日三浦按針製造80トン船で江戸浅草川からルソンへ帰還
慶長11年(1606)6月15日返礼大使浦賀湊に着岸
[根拠]
「通航一覧179巻」、三浦浄心「慶長見聞集巻3」、「慶長年録 慶長11年項」、「清和源氏向系図」
【2回目の漂着】
[状況]
慶長14年9月3日(西暦1609年9月30日)マニラからアカプリコに向かうロドリゴら乗船のサン・フランシスコ号が上総国岩和田沖で暗礁に乗り上げ破船
慶長15年6月13日(西暦1610年8月1日)浦賀湊から三浦按針製造120トン船(改称されてサン・ブェナ・ヴェンツーラ号)で 田中勝介ら日本人も乗船しアカプリコに向け出帆
慶長16年4月29日(西暦1611年6月10日)返礼大使セバスチャン・ビスカイノ、田中勝介ら日本人乗船のサン・フランシスコ2世号が浦賀湊に着岸 日本が望んだメキシコとの交易は甚だ不十分なものであり、返礼大使セバスチャン・ビスカイノは金銀島探索など非友好的な行動をとった。
家康の対スペイン外交の狙い
豊臣秀吉が慶長3年8月18日(西暦1598年9月18日)に死去すると 徳川家康はスペインが保有する次の2つの技術 ①外航可能な船の造船技術 ②金銀のアマルガム製錬技術 の導入を図るべく密かに活動を開始し、秀吉没3ヶ月後の慶長3年11月9日(1958年12月7日) 国外追放されながらも再入国し隠れていたフランシスコ会宣教師ヒエロニモ・デ・ジエズスを探し出し、伏見城で引見した。
このとき、家康はスペイン船が江戸に近い浦賀に着岸し貿易を行い、上記2つの技術導入ができれば 布教に便宜を与えるとした。しかし この家康の願いは 1616年に家康が死去するまでスペインにより受け容られることはなかった。これにより 徳川幕府は本格的にキリスト教を禁じ スペインとの交流断絶へと進むこととなった。
漂着船対応の家康と秀吉の相異
【秀吉の対応】
①日本古来の慣例として漂着船の積荷を全て没収する
1986年10月19日 土佐国浦戸沖に漂着したスペイン船サン・フェリパ号の積荷は 日本古来の仕来り倣った秀吉の命により全て没収した これに対しフェリペ号の乗組員が「スペインは世界一の大きな国であり 宣教師を送り込み 信者が十分な数に増えたとき暴動を起こさせ これを鎮圧するとして軍隊を投入占領し植民地とする」との趣旨の言を口にしたことを以て 秀吉は宣教師と日本人を含む26人を処刑した
【家康の対応】
①漂着船の積荷を没収しない ②マニラからアカプリコの中継基地として浦賀に寄港し 水・食料品補給 船の修繕を行ってよい
参考文献Webサイト
日西墨比貿易港之碑 (横須賀市東浦賀) 本サイト「徳川家康ゆかり」内ページ
鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交』2010年 新人物往来社刊
鈴木かほる著「スペイン外交と浦賀湊」『郷土神奈川52号』2014年2月 神奈川県立図書館刊―神奈川デジタルアーカイブ
岩和田-田尻海岸 ドン・ドロリゴ上陸地
撮影:2019-06-13
田尻海岸 (海に向かって左手)
海岸に降りることは危険なため禁止
案内碑 (左:スペイン語 右:日本語)
車道から海岸への細道終点の右手に設置
案内板 「ドン・ドロリゴ上陸地」
海洋生物環境研究所(海側)フェンス外に建つ
所在地
千葉県夷隅郡御宿町岩和田300にある(公財)海洋生物環境研究所中央研究所の先
<参考>海生研中央研究所案内地図 海洋生物環境研究所サイト
案内碑(日本語版) (夷隅郡教育委員会・御宿町 案内碑)
ドン ロドリゴ上陸地
慶長14年(1609)9月30日 前フィリピン諸島長官 ドンロドリゴが任期満ちてメキシコに帰ろうとルソンのマニラ港からスペイン帆船サンフランスコ号で メキシコのノビスパンのアカブリコ港に向う途中 暴風雨にあい この海岸に座礁した 夜半317名の乗組員が上陸したが 岩和田村の人々は これを温かく迎え 手厚く保護し 幕府の指示が下るまでの37日間 当地の大宮寺に滞在させた
昭和56年3月31日
夷隅郡教育委員会
御 宿 町
案内板 (環境省・千葉県 案内板)
ドン・ロドリゴ上陸地
慶長14年(1609)9月30日夜半 前フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ・デ・ヒベロ・イ・ベラスコ 一行を乗せたサンフランシスコ号がメキシコのアカプリコ港への帰還途中、岸和田の田尻沖で遭難(乗組員373名)。事件を知った村民(旧岩和田村)は総出で駆けつけ、救助活動にあたった、
救助されたロドリゴ一行は、37日間を過ごした岩和田村に別れを告げ、大多喜城経由で江戸へと出発することとなり、駿府では将軍徳川家康に謁見している。
その後、家康はロドリゴたちの帰国のため、舟を作らせ、慶長15年6月13日に浦賀を出航し、その年の10月27日に、無事アカプリコに到着した。
環境省・千葉県
<注>
上記文中に 将軍徳川家康とあるのは誤り、正しくは 江戸で将軍徳川秀忠に謁見し、駿府で大御所徳川家康に謁見したもの、当時 外交は徳川家康が実権を持っていた
また ロドリゴたちが帰還に使った船は 徳川家康がウイリアム・アダムス(後の三浦按針)に 関ヶ原の戦い(1600年)の後に 豆洲の伊東(現静岡県伊東市)で造らせた2隻の洋式帆船(80トンと120トン)のうち大きい方の船であった
大波月海岸・小波月海岸
撮影:2019-06-13
大波月海岸 (海に向かって左手)
大波月海岸 (海に向かって右手)
小波月海岸 (海に向かって正面)
大波月海岸は 田尻海岸のやや南方にあり 車道から草に覆われた細い道を数分進むとある。ここに掲げた写真2点は砂浜に降りないで撮ったもの 車道からの入口には自動車が数台駐車できる空き地もあり 訪ねる価値がある。
小波月海岸は メキシコ記念公園入口の南方にある集落の専用道路の先にあり 一般車両進入禁止であり 海岸に降りる道が崩壊し 海岸を含め荒れており 推奨はできない
田尻海岸の少し北方にあるという小浦海岸は 按針亭管理人は時間の余裕がないため 訪ねなかったが 小さな海岸であるが 崖の穴から海岸を見ることができるとのこと