新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-15
名 称
臨済宗妙心寺派 補陀落山鉄舟寺
所在地
静岡県静岡市清水区村松2188
開 創
飛鳥時代初期 -推古天皇(592- 628)の頃-
開 基
久能忠仁
中 興
明治16年(1883) 寺号を久能寺から鉄舟寺に改めた
中興開山
今川貞山師 (臨済寺)
中興開基
山岡鉄舟
本 尊
千手観音菩薩
案内板 (山門の左前設置)
補陀落山鉄舟禅寺由来
鉄舟寺はもと久能寺と云い、今の久能山にあって、凡そ1300年の昔、推古天皇の時、國主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期行基菩薩が中興せられた。
当時坊中360、衆徒1500人もあり、豪盛を誇っていた。又、鎌倉時代以後の貴重な文献、仏像、仏画、納経、什器等数々の宝物が今日迄寺に残されてある。
降って 武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで、久能の嶮要に築城する事となり、天正3年(今から360年前)現在の場所に移されたのである。
後 武田氏は亡されたが、徳川幕府も名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
幕末の俊傑山岡鉄舟はこれを惜しみ再興を発願して、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし廣く寄進を募る事にした。明治16年、鉄舟48才の時である。ところが鉄舟は明治21年7月、53才でこの世を去り鉄舟寺の完成を見る事が出来なかった。
清水の魚商芝野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので、鉄舟の意志をつぎ幾多の困難を乗り越えて、明治43年3月 鉄舟寺の完成を果たしたのである。
本堂前 富士に向って鉄舟居士の歌碑が建ち、
「晴れてよし曇りてもよし不二の山 もとの姿はかはらざりけり」と、一しお趣をそえている。
奉納 社団法人送電線建設技術研究會
案内板 (山門の右前設置)
国宝「久能寺経」装飾法華経嘱累品
平安時代後期 永治元年(1141) 鐵舟寺蔵
装飾経の最高峰である「久能寺経」と「平家納経」は、平安貴族の法華経信仰の隆盛と写経の荘厳が極限に達した平安時代後期に出現している。それは、貴族仏教と王朝文化が融合した結晶ともいえるこの世に類のない紙工芸の傑作である。「久能寺経」は、平安宮廷の優雅典麗の雰囲気と高貴な気品を湛えている。また、その約20年後に完成した「平家納経」が、平清盛(1118~1181)率いる一門の莫大な財力を背景に権勢を誇り、栄華をきわめた豪華絢爛たる趣好と対称をなしている。
久能寺経は、永治元年(1141)鳥羽上皇(1103~1156)御出家の折、逆修(生前の供養)50講が営まれ、この機会に写経された。そして、鳥羽上皇の離宮の一部にあった安楽寿院に置かれた。法華経28品を各28巻として、開経の「無量義経」と結経の「観普賢経」を加えた30巻の1品経である。巻末に結縁者として、中宮待賢門院(1101~1145)、女御・美福門院(1117~1160)をはじめ宮中の人々の名が、写経写とは別人によって書かれている。
いつのころか、東海道の佛法布教の一大中心地として栄え、寺坊360余を擁する久能寺に京都より将来された。それより800年余、世の変遷の中、一部が流失して、とりわけ明治維新後の久能寺荒廃の折に8巻が散逸している。幸い明治16年(1883)、明治天皇侍従・山岡鐵舟(1836~1888)が、名刹の廃れたのを惜しみ、鐵舟寺を再興し、残る久能寺経19巻は無事保存され、明治33年(1900)、国宝に指定された。
この「嘱累品」は料紙に、金銀の切箔や砂子、銀の野毛を控え目に散らし、界線(行割の線)も銀泥で明るい色調である。上方には、五天女が軽やかに舞い飛び、経文の下には、水波を銀泥で表した池に、蓮の花が、緑青・群青等で、こまやかにのびのびと描かれている。
見返絵の山と霞を金銀で描いた絵は、明治34年の修理に際し添えられた。
合掌
平成7年7月
鐵舟寺 住職 香村俊明 識
補 足
静岡浅間神社の社領には、鉄舟寺の前身である久能寺と明治維新後廃寺となった建穂寺の静岡浅間神社別当寺分が含まれ、同社の3月会(桃華会)には久能寺から菩薩舞を奉納していたという。
本サイト按針亭管理人が鉄舟寺を訪ねた時は、生憎、豪雨、しかも朝早い時間、雨を避けるため路線バスに逃げ込まざるを得ず、極めて短い滞在となった。写真には雨脚と激流が写っているのもある
参考Webサイト
鉄舟寺 ウィキペディア
鉄舟寺 fujisan3216 のブログ
鉄舟寺 山岡鉄舟ゆかりの寺 お寺の風景と陶芸 サイト
鉄舟寺 国宝も所蔵する山岡鉄舟ゆかりのお寺 CANDEO TIMES サイト
鉄舟寺 - 山岡鉄舟と清水次郎長 ブログ お茶を楽しもう