新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-14
名 称
臨済宗妙心寺派 大龍山臨済寺
所在地
静岡県静岡市葵区大岩町7-1
開 創
享禄年間(1528~31)
開 山
栴岳(せんがく)/梅岳(ばいがく)承芳(後の今川義元)
開 基
今川氏親
中 興
天文5年(1536) (寺号を善得院から臨済寺に改めた)
中興開山
京都妙心寺霊雲院大休宗休
実質中興開山
大休宗休の弟子太原崇孚(雪斎)
本 尊
阿弥陀如来
案内板 (静岡市案内板)
臨済寺 (大竜山臨済寺)
臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師太原雪斎長老が、師の大休禅師を迎え開山した。雪斎は、今川義元の執権職として、帷幕(群議する場所)に縦横の機智を振るった人である。義元が、駿、遠、三の太守として東海に勇を振るったのも、雪斎の力によるところ大で、この時代がまた、今川家の最盛期でもあった。
徳川家康は、竹千代時代の天文18年(1549)8歳のときから、今川家の人質としての12年間、この太原雪斎から文武両道を学んだのである。後年、家康が天下を治め徳川300年の基礎をつくった素地は、この幼年時代に培われたといえる。
雪斎は弘治元年(1555)10月10日、60歳でこの世を去った。雪斎の没後5年の永禄3年5月、桶狭間の合戦で義元が敗死すると、今川家の勢力は急激に衰え、やがて滅亡する。今川家は雪斎によって興り雪斎を失って衰亡したといえる。
境内墓地の最上段には、氏輝公と雪斎長老の墓がある。
主な文化財 庭 園 (国の指定名庭)
大方丈 (国の重要文化財)
静岡市
案内板 (静岡市観光交流課案内板)
大龍山臨済寺
今川家の菩提寺で、本堂は国の重要文化財に、庭園は国の名勝に指定されています。
人質時代の竹千代(後の徳川家康公)は、「手習い間]において、今川義元の軍師であった太原雪斎から多くの事を学んだと伝わっています。 修行寺のため境内を除いて通常は見学できませんが、春(毎年5月19日)と秋(10月15日)に、特別公開されます。
①山門
境内へと続く臨済寺の玄関口です。神仏分離により浅間神社から移動された仁王像が安置されています。また、徳川慶喜公の揮毫による、山号「大龍山」の額が掲げられています。
②本堂
大方丈とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。建立は江戸時代前期で、入母屋造、こけら葺きで、方丈形式の平面をもっています。建物の正面には、駿河の勅願寺(国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願時)であったことを示す「勅東海最初禅林」の額が掲げられています。
③臨済寺庭園
天正年間に築造されたと伝わる庭園で、国の名勝に指定されています。
賤機山の斜面を利用した、3段造の池泉回遊式の庭園です。本堂等の僧坊と共に、毎年、春と秋に特別公開されます。
静岡市 観光交流課
補 足
今川義元は、今川氏親の5男であったので、4歳で仏門に出され、駿河国富士郡瀬古禅得寺の太原雪斎に預けられた。後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度、栴岳承芳となり、さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めたという。
臨済寺は、今川氏親が5男の栴岳承芳のために母親北川殿の別邸跡に「善徳院」を建立したのに始まるという。氏親の跡取り氏輝(義元の兄)が急死し、さらに次の兄も急死したため、「花倉の乱」を経て、義元が家督を継いだ。義元は兄氏輝の法名に因んで「臨済寺」に改めたと伝わる。
参考Webサイト
今川義元と臨済寺 電子版『歴史研究』サイト
臨済寺 家康公を学ぶサイト
臨済寺 全国家康公ネットワークサイト
今川義元 ウィキペディア
臨済寺の特別公開に行ってきました 今川さんオフィシャルサイト