新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-03-31
所在地
埼玉県行田市本丸12-5
案内板
諏訪神社(すわじんじゃ)
御祭神 建御名方命・八坂刀売命
例 祭 9月17日
当社の鎮座したは、82代後鳥羽天皇の建久(1190頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又、「持田村誌」には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)、城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672)、拝殿を新たに建立した。現在の社殿は、昭和36年の造営である。
文政6年(1823)、松平忠堯は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目蓮社を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も、同時に当社へ配祀された。
社務所
補足
諏訪神社の方が、東照宮より歴史が古く、東照宮は諏訪神社の一郭に造営された形になっている
参考Webサイト
忍東照宮本サイト内の別ページ
諏訪神社の大木
撮影:2018-03-31
所在地
埼玉県行田市本丸12-5
案内板
諏訪の大木
忍城は江戸に一番近い親藩だったので、明治政府から明治4年12月 府県官制(今までの県知事は旧藩主であったが、政府の任命による知事にした)がしかれるとともに、忍城は何物も残さず取りこわしを命ぜられた。
城の建物の取りこわしといっても建物の数が多いので、取りこわす費用がない。そこで、入札という形式で払い下げ、取りこわしの費用とした。忍藩に貸金していた家は、それで棒引きの上に、取りこわしをしなくてはならなかったのである。家(うち)の門は、家(うち)の倉は、忍城の建物であると人が多いのは、そんな事情で、ごく最近まで行田の各地に忍城の建物のなごりがあったのである。しかし、今では加須市の不動岡の不動さま(総願寺)の西の黒門が忍城北の守り、六ツ門で、忍城なごりの唯一の完全な建造物である。
そんなわけで、明治5年、6年の2か年で、忍城の建物は何一つ残さず取りこわされ、樹木まで伐採されることになった。大町の通りは、北側が松の大きな並木であったが、全部切りとられてしまった。本丸、諏訪曲輪の松、杉の大木も残すことはできなかった。諏訪曲輪の南方の、元忍公園といわれた地区から、杉の大木が次々と切りとられていった。そして、伐採は諏訪神社の拝殿近くに及んでいき、拝殿のすぐ近くまでいったある日、切っていると突然に杉の木から、生血のような赤いものが流れだした。「ご神木から生血が流れた、切る人にバチがあたる」と、人夫だれひとり手をだす者がなくなってしまった。そのために諏訪の森だけは、ご神木ということで、現在まで残ったのである。そのことがなければ、忍城の樹木として全部伐採されてしまったわけである。
平成27年12月
社務所
参考Webサイト
忍東照宮本サイト内の別ページ
忍城址・行田市郷土博物館本サイト内の別ページ