新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-14
名 称
曹洞宗 萬松山可睡斎 (ばんしょうざんかすいさい)
所在地
静岡県袋井市久能2915-1
開 創
応永8年(1401)
開 山
如仲天誾禅師 (じょちゅうてんぎんぜんし)
本 尊
聖観音菩薩
案内板
可睡斎の由来
可睡斎は、600年前(応永8年) 如仲天誾禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹です。
11代住職仙麟等膳大和尚は、幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に、家康が、浜松城主となった折、報恩の為に城に招かれた、その席でコックリコックリ居眠りを始めました。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡(ねむ)る可(べ)し」(御前にて睡っても無礼ではないとの意)と言い、「可睡和尚」と愛称せられ、寺号も東陽軒から可睡斎と改め、後に10万石の待遇と徳川幕府最初の僧録司という職を与えられました。
火防守護の総本山
秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から1300年の昔、越後蔵王権現堂の12坊の1つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩33化身の1つであります。樓羅身(るらしん)
を現じられました。かくして、秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第1に、三大誓願をおこし火防の霊場を開かれました。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治6年に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として、全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願しています。
火防総本山 秋葉総本殿 可睡斎
補足
総門の手前に、三つ葉葵紋を添えた、標柱「徳川家康公深きゆかりの禅寺」が建っている
参考Webサイト
可睡斎 可睡斎サイト
可睡斎 ウィキペディア
東陽軒
撮影:2018-04-14
案内板
東陽軒
当山5世太路一遵和尚(1398~1518)は如仲天誾禅師について出家したことから、禅師が一時寓止したといわれる久野城外の松樹下の大通庵を探り当て坐禅をしていた。
坐禅中、毘沙門天の奇瑞を感得し、お告げ通り近くに1つのお堂を建て、東陽軒と名付けた。その東陽軒が可睡斎の始まりである。
現在の建物は、昭和60年に観音堂を移築したものである。
山門
案内板
山門
禅宗寺院の七堂伽藍の1つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたところから三門または山門と書かれた。
また、1つの門でも 、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。
また、可睡斎の山門は、昭和10年に当時、建築界の重鎮 特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼しておりましたが、完成までに至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年に落慶いたしました。
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の1つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を1対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。
言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋肉隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
*伊東忠太博士(1867~1954)は、山形県米沢市出身の明治~昭和期の建築家、建設史家である。主な建築物は築地本願寺などある。
出世六の字穴
撮影:2018-04-14
案内板
「出世六の字穴」の伝説
戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。
その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城などを築き国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。
その出世の故事になぞらえ、当齋のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。
出世六の字とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世間から離脱する「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる。
なお、当齋にはその後、徳川幕府より駿河・遠江・三河・伊豆の寺院を統轄する「僧録司」の職と十万石の待遇が与えられた。
参考Webサイト
雲立つ楠(浜松八幡宮) 当サイト
東照大権現(徳川家御霊屋)
撮影:2018-04-14
家康公は、本堂内右手、横書の「東照大権現」、縦書の「徳川家御霊屋」と表記されたところに祀られています。
坐禅堂(僧堂)
撮影:2018-04-14
案内掲示文
坐禅堂
ここは、坐禅堂です。(選仏道場、僧堂とも呼ばれる)
修行僧はこの1畳の畳に起居し、(起きて半畳、寝て1畳と言われる) 坐禅修行に励みます。
「今は直(じき)に今なり、一切もちゆることを必要とせずこれ単(ひとえ)なり、これを示せるは禅なり」
諸々の縁を放捨(ほうしゃ)し、いろいろと考えることを休止してひたすら坐ってみよう。
中央に文殊菩薩を祀る。
文殊菩薩は知恵の仏様です。よく言われる「3人寄れば文殊の知恵」の文殊様です。
知恵の向上を望む人を守り、学問の悩みを解き、勉学の苦みを乗り越える力を授けて下さいます。
御真言は 唵叱洛呬焰(おんしろきえん)
僧堂聯説明
山不敢高 巳伝海内
(仏の悟りと言う山には到達できないかと思っていたが)山敢えて高からずして、海内(日本)に伝わり。
寺雖聯完 足養道人
寺(の設備は)ささやか(聯完)と言えども、修行する人を養うに足る。
真風林
(当山53世原田亮裕老師筆)
明治時代に西有穆山老師が可睡斎に学林を開いて「真風林」と名付けました
輪蔵
撮影:2018-04-14
案内板
輪蔵
輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または「一切経」と称す)を収め置く、寺院建築において古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです。
可睡斎の輪蔵は、平成18年の伽藍修復工事の一環で移築した際、建築当時の棟札が出てきた。棟札の記述によると、輪蔵建築の発願者は、可睡斎48世日置黙仙禅師、後の大本山永平寺の第66世貫首猊下である。日置禅師の意志を受け継ぎ、大正8年輪蔵を上棟したのは、可睡斎49世秋野孝道禅師、後の大本山総持寺独住7世貫首猊下であります。
輪蔵を考案したの傳大士(ふだいし)様(中国南北時代、斉の東陽の人 497年から569年)は、明るい将来には、「大蔵経」に親しむにありとして、当時、文字を知らぬ人、修学する環境にない人々にも、広く仏教と縁を結ばせる為に、輪蔵(8角の書架が中心にある軸で回転できるもの)を考案したと伝わる。
「輪蔵」を時計回しに1回転させると、「大蔵経」を修学するのと同じ功徳を得られるとされ、経蔵に対する信仰が深まった。
奥の院・位牌堂・東司