新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-15
名 称
臨済宗妙心寺派 巨鼇山(こごうざん)清見興国禅寺
所在地
静岡県静岡市清水区興津清見寺町418-1
開 創
伝 白鳳年間(7世紀後半 -天武天皇の頃-)
清見関(きよみがせき)鎮護の仏堂建立
平安時代は天台宗寺院と推測
再興開山
関聖(かんせい)上人 (無伝聖禅禅師 - 京都東福寺聖一国師の弟子)
再 興
弘長2年(1262) 聖一国師を招き落慶法要(臨済宗に改宗 清見関寺と称す)
再再興開山
太源崇孚禅師(今川義元の軍師)
戦国時代の戦乱で荒廃していた清見寺を再再興し、東福寺派から妙心寺派に改めた
本 尊
釈迦如来
案内板 (案内碑「東海道 興津宿」の一部)
清見寺
清見寺(せいけんじ)は、「巨鼇山(こごうざん)清見興国禅寺(せいけんこうこくぜんじ)」という、臨済宗妙心寺派の寺院です。奈良時代には創建されたと伝えられ、東海道の交通の要衝に位置していることが重視され、足利尊氏をはじめ歴代の時の権力者達によって庇護されてきました。
そのうちの1人徳川家康公も、清見潟(きよみがた)を隔てて三保松原を望む絶景の地にある清見寺を幾度も訪れ、庭園(江戸初期の作・国指定名勝)に駿府城の石を配したり、大方丈前の臥龍梅(がりょうばい)(市指定天然記念物)を手植えするなど、手厚く保護してきました。
清見寺は、家康公が取り組んだ平和外交の象徴である「朝鮮通信使」が江戸時代を通じてたびたび訪れたことでも知られており、朝鮮通信使による詩書をはじめ多くの歴史資料が保存されています。往時の建造物などが良好に残る境内は、平成6年に「朝鮮通信使遺跡」として、国の史跡に指定されています。
平成29年10月には、清見寺所蔵の朝鮮通信使による詩書などを含む日韓の「朝鮮通信使に関する記録」が、ユネスコ「世界の記録」(世界記憶遺産)に登楼されました。
興津地区まちづくり推進委員会 清水商工会
案内板 (静岡市教育委員会案内板)
国指定史跡 朝鮮通信使遺跡(興津清見寺境内)
江戸時代における平和的な日朝交流の象徴であった朝鮮通信使は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するために徳川幕府側が提案した外交政策のひとつです。
清見寺は、徳川将軍の代替わりのたびに派遣された使節(朝鮮通信使)の休憩場所として何度も利用され、慶長12年(1607)に派遣された江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の名称は回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし))は、江戸からの帰路に清見寺で宿泊しました。
書画や漢詩に優れた朝鮮通信使と地域の人々との文化交流の場となった清見寺には、朝鮮通信使が書いた漢詩や、それを木に彫り写した扁額が多数残されています。
清見寺は、当時の遺構が良好に残っていることから、鞆福(ともふく)禅寺境内(広島県福山市)、牛窓本蓮寺(うしまどほんれんじ)境内(岡山県瀬戸市)とともに平成6年10月11日に,国の史跡に指定されました。
平成27年3月10日
静岡市教育委員会
補 足
清見寺の再再興開山である太源崇孚禅師(今川義元の軍師・太原雪斎)については、本サイト内の臨済寺を参照されたい。家康は雪斎から多くを学んだといわれる。
参考Webサイトほか
清見寺 清見寺公式サイト
清見寺 ウィキペディア
清見寺 家康公を学ぶサイト
「東海名区 巨鼇山清見寺略記」 清見寺刊
小冊子「朝鮮通信使に関する記録 清見寺朝鮮通信使詩書 ユネスコ世界の記憶 登録 国指定史跡朝鮮通信使遺跡(興津清見寺境内)」 静岡市刊
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」新潮社刊 P.45
徳川家康の縁
撮影:2018-04-15
朝鮮通信使の縁
撮影:2018-04-15
向氏墓・五百羅漢・鐘楼
撮影:2018-04-15