新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
沿革
撮影:2018-01-25他
所在地
東京都台東区上野公園9-88
案内板 (台東区教育委員会案内板)
上野東照宮(国指定重要文化財)
藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後、家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、はぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は、社殿とともに構造、様式が優れており、貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成21年3月
台東区教育委員会
案内板
東照宮略記
[祭神]
徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
[縁起]
元和2年2月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ、3人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627)に本宮を造営した。その後、将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安4年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
[文化財]
唐門(左甚五郎作龍)、透塀、拝殿(金色殿)、幣殿、本殿、棟札、銅燈籠、表参道大石鳥居、以上重要文化財
紅葉山鳥居(寛永3年)、石燈籠220基(主に慶安4年)、水舎門(慶安4年)、お化け燈籠(寛永8年)、茶室(明暦2年)、新門辰五郎水舎(明治6年)、神楽殿(明治7年勾配の美都下随一)、陣羽織(都重宝)、辻ヶ花染胴服(都重宝)
参考Webサイト
上野東照宮サイト
社殿
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88
案内板
社殿
1651年造営。国指定重要文化財。文化愛保護の為 社殿内は非公開。
参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の3つの部屋から構成される権現造り。
金箔がふんだんに使用されていることから金色殿とも呼ばれる。
社殿外壁の彫刻は鷹・鶴・鳳凰や獅子が力強く表現されているほか、松・菊・牡丹・芙蓉などの植物も美しく施されている。柱上部や彫刻周囲の文様は置上彩色(おきあげざいしき)で装飾されている。胡粉を何度も塗り重ねて厚みを出し、その上から金箔を貼ることで、文様が立体的に輝くよう工夫された豪華な彩色方法である。
唐門
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88
案内板
唐門(からもん)
1651年造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
柱内外の4額面には、日光東照宮「眠り猫」で有名な左甚五郎(ひだり じんごろう)作の昇り龍・下り龍の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説がある。
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透し彫りがあり、非情に精巧にを極めたものである。
中央左右の透かし彫りは、諌鼓鳥(かんこどり)という中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたが、善政のため打たれることは無く、太鼓の台座は苔生し鶏が住みつくほどであったと言う話に基づいている。天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられている。
透塀
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88
案内板
透塀(すきべい)
1651年造営。国指定重要文化財。向こう側が透けて見えるのでこの呼び名がある。社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が200枚以上彫られている。獣や鳥、魚の他、蛙や貝、なまず、蝶、かまあきりや想像上の動物など珍しい彫刻もあり、生き生きと表現されている。これらの彫刻は造営当時極彩色であったと考えられているが、その後の修理の際に弁柄漆で上塗りされてされていた。
平成21~25年の保存修理工事では江戸造営当時の姿を蘇らせるために全ての彫刻に彩色を行った。彫刻の形から動物の種類を推察し、造営当時の彫刻や絵を参考に有識者間での検討を重ねて色を決定し彩色がなされた。絵具は造営当時と同じ岩絵具を使用し、生彩色(いけざいしき)を施した。金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法である。
銅燈籠
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88
案内板 (台東区教育委員会案内板)
銅燈籠(どうとうろう)
東照宮社殿唐門前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、8角・6角・4角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これらの銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基をはじっめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同年5月孟夏17日奉献2基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
平成8年7月
台東区教育委員会
栄誉権現社と大楠
撮影:2018-01-25
栄誉権現
四国八百八狸の総師
奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本諸家を潰し、大正年間 本宮に奉献された悪業狸、他を抜く(たぬき) 強運開祖として信仰が厚い
縁起日は5の日
御神木 大楠
幹周囲約8メートル、高さ約25メートル
樹齢約600年、東照宮創建以前からこの地を見守り続けている上野の祖木
神楽殿
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88
屋根の勾配が美しいといわれる
明治7年(1874) 深川木場組合奉納
神楽殿の前に 白く写っているのは残雪
きささげの木
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-88(社殿を囲む透塀の内側)
案内板
慶安4年(1651)の社殿造営時に、雷除けの願いを込めて植えられたと伝えられ、樹齢は350年以上と言われています。
ささげは、ノウゼンカズラ科の落葉高木で、雷から社殿を守ると信じられてきました。
夏には香りの良い淡黄色の花を咲かせます。
細長いその果実は梓実(しじつ)、樹皮は梓白皮(しはくひ)と呼ばれ、昔から生薬としても使われています。
お化け燈籠
撮影:2018-03-16
所在地
東京都台東区上野公園4 (大石鳥居手前左奥)
案内板 (台東区教育委員会案内板)
お化け燈籠(おばけとうろう)
佐久間大膳亮勝之(だいぜんのすけかつゆき)が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の4男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康の仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本3大燈籠に数えられる。
平成8年7月
台東区教育委員会
旧寛永寺五重塔
撮影:2018-01-25
所在地
東京都台東区上野公園9-83(上野動物園内)
旧寛永寺五重塔は、明治初期の神仏分離令が出る前までは、上野東照宮の五重塔であった。美しい五重塔を神仏分離令で取り壊すには偲び難く思った当時の宮司が、熟慮の末、五重塔を寛永寺に譲渡することによって、取り壊しを逃れたという。
(久能山東照宮の五重塔は、神仏分離令で取り壊されたので、現在はない)
したがって、上野東照宮から見える面が、今は「旧寛永寺五重塔」と名称を変えた五重塔の正面だという。上野東照宮境内から撮った写真手前のフェンスは、上野動物園との境界となっている。
なお、本サイトの次のページを参照されたい
旧寛永寺五重塔