新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
鹿伏兎城跡
撮影:2019-05-16
鹿伏兎城跡の石垣
鹿伏兎城跡の土塁
鹿伏兎城跡の土塁
所在地
三重県亀山市加太市場字奥ノ平1518ほか(牛谷山上)
案内板 (鹿伏兎城跡設置の関町教育委員会案内板)
史跡 鹿伏兎城跡
昭和56年3月14日 三重県指定
所在地 関町大字加太市場(牛谷山上)
(概要)
鹿伏兎城は、鈴鹿川一帯を支配した戦国大名関氏6代盛政の4男四郎盛宗によって、正平(1346-70)のころ築かれた。
はじめ牛谷城と呼ばれたが、鹿伏兎氏7代定好のとき修築して鹿伏兎城と呼ばれるようになった。定好の子定長が、将軍足利義晴に白鷹を献上したことから、白鷹城とも称されるようになった。
いまも 涌井・石垣・土塁等を残し、勇敢な鹿伏兎城戦士が出撃した中世山城の面影をとどめている。
平成7年3月吉日
関町教育委員会
案内板 (神福寺山門前設置の関町教育委員会案内板)
三重県指定史跡 鹿伏兎城跡 三重県指定年月日 昭和56年3月14日
鹿伏兎(かぶと)城は、鈴鹿川一帯を支配した戦国武将関氏6代盛政(もりまさ)の4男四郎森宗(もりむね)(鹿伏兎氏祖)によって南北朝時代の正平(しょうへい)(1346~1369)のころ築かれた。
はじめ「牛谷(うしたに)城」と呼ばれたが鹿伏兎氏7代定好(さだよし)の代に修築して鹿伏兎(かぶと)城と呼称を改め、城郭を整えた。また天文11年(1542)に定好(さだよし)の子である鹿伏兎定長(さだなが)が、時の将軍である足利義晴(よしはる)に白鷹を献じたことから「白鷹城」と呼ばれるようになった。
その後、天正11年(1583)に9代定義(さだよし)は、豊臣秀吉の軍勢に敗れ、鹿伏兎城を捨てこの地を去った。現在でも標高264mの山頂には、75×60mの台状地に土塁、石垣、井戸が現存し往時の面影をしのばせている。
関町教育委員会 平成15年3月
補足
その後、関町は平成17年(2005)1月11日に 亀山市と合併し 現在は亀山市となっている。
参考文献Webサイト
鹿伏兎城跡 三重県教育委員会サイト
亀山市史考古編第12章 鹿伏兎城跡-加太城とその周辺 亀山市歴史博物館サイト