新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-10
所在地
愛知県名安城市野寺町野寺26
名 称
浄土真宗大谷派 雲龍山本證寺
開 創
鎌倉時代後期(13世紀末頃)
開 基
慶円
案内板 (安城市教育委員会案内板)
本證寺略史
本證寺は真宗大谷派の寺院で、山号を雲龍山といいます。鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に、慶円(きょうえん)によって開かれました。寺伝によれば、慶円が新たな布教の土地を求めて矢を放ち、この地に落下したとされます。
15世紀後半には、本願寺の蓮如の教化によって浄土真宗の高田派から本願寺派(いわゆる一向宗)に転じました。このころから、三河地方における本願寺派寺院の組織化が進み、後に上宮寺、勝蔓寺(いずれも岡崎市)とともに三河3か寺と呼ばれます。そして16世紀の前半になると、二重の堀と土塁が築かれました。これにより城郭寺院とも呼ばれます。
永禄6年(1563)の三河の一向一揆では、本證寺は他の三河3か寺とともに領主の徳川家康と争いました。いったんは和議が結ばれますが、家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、坊主衆は領国から追放となり、建物も破却されたと伝えられます。本證寺10代の空誓も、加茂郡菅田輪(現豊田市)に逃れました。一揆の罪が赦免されたのは、約20年後のことです。天正13年(1585)の徳川家康黒印状では、本證寺は施設である「道場屋敷」の保証と、寺に属した「家来三十間」(家来=外堀に囲まれた「寺内」の住人」の租税の免除が認められています。
江戸時代には、三河3か寺は本山―中本山―末寺という本末制度のなかで中本山の地位を与えられ、末寺のとりまとめ役を担いました。また、本證寺は領主や寺社奉行と配下の寺院とをつなぐ三河国の触頭としての役割をあわせ持ち、幕末には200か寺余の末寺を有する大寺となりました。
今日の本證寺の寺観は、江戸時代を通じて順次整えられています。現存する建物のうち最も古く再建されたのは本堂で、以後、鐘楼、裏門、鼓楼、経蔵、庫裡の順となります。そして、江戸時代の後期には、かっての外堀の位置が掘削され、再整備が行われました。
また、大名家と関係を持っていたことも特徴です。近江国水口藩(現滋賀県甲賀市)の加藤家は、本證寺の檀家であったことから、宝暦11年(1761)に藩主の加藤明煕が本尊を納める空殿を寄進しています。
明治時代になると、本末制度は廃止されますが、今日まで多くの寺宝を伝え、堀や土塁、建造物群が残されています。
安城市教育委員会
参考サイト
本證寺境内が国指定史跡になりました! 安城市サイト
本堂 愛知県指定文化財
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
本堂
一揆から100年後の寛文3年(1663)に再建されました。地方の真宗寺院本堂としては比較的大型になります。欄干の擬宝珠には、寄進者の名が刻まれています。
鐘楼 安城市指定文化財
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
鐘楼
大寺院特有の脇柱を持ち、元禄16年(1703)に建立されました。牛久保(現豊川市)の堂宮大工棟梁 岡田五左衛門が関わっています。龍、獅子、麒麟、虎などの彫刻も秀逸です。
裏門 安城市指定文化財
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
裏門
裏門は薬医門という形式で、18世紀前半に建立されました。簡素ですが雄偉で力強く、風格が備わっています。
鼓楼 安城市指定文化財
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
鼓楼
宝暦10年(1760)の建立です。真宗寺院特有の建築で、上層にある太鼓で時を知らせていました。屋根の鯱瓦や黒と白の外観、石積み上に建つ姿は城郭の隅櫓を思わせます。
経蔵 安城市指定文化財
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
経蔵
経蔵は寺宝である経典を収納する蔵で、文政6年(1823)に建立されました。腰壁には、耐火性に優れ、土蔵などに見られる海鼠壁が用いられています。
庫裡
撮影:2018-04-10
案内板 (安城市教育委員会案内板)
庫裡
文政13年(1830)に、一部を他から移築して再建されました。大寺院にふさわし規模と質を備え、特に表土間と広間の吹き抜け空間からは、本證寺の風格が感じられます。
堀
撮影:2018-04-10