新設:2018-07-01
更新:2019-07-01
沿革
撮影:2018-04-11
所在地
愛知県豊田市松平町三斗蒔17
案内板 (松平親氏公顕彰会案内板)
豊田市指定史跡 松平城址
郷敷城と称する。応永(1394-1427)のころ、松平(徳川)氏の始祖親氏の築城と伝わる。松平氏舘跡の南東500メートル、お城山と呼ばれている標高298メートルの山頂に位置し、本丸は約6アール、西北部山腹に二の丸、その下段に三の丸跡がみられる。西部の他は総て急峻な斜面で、本丸跡の下方約15メートルの山腹に、南、東、北の3方にわたり、幅3~5メートルの空堀が約200メートル残っていて、不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城である。文禄(1592-1595)のころに破却といわれているが明らかではない。
昭和61年3月
松平親氏公顕彰会
案内板 (豊田市教育委員会案内板)
松平城址
郷敷城とも呼ばれる。応永の頃(1394~1427) 松平氏の始祖親氏が築いたと言われる。跡を継いた2代泰親(親氏の弟、一説に子)が3男信光(松平宗家3代)とともに岩津(岡崎市)に進出してからは、次男信広の居城になったと伝えられる。(信広、信光は親氏の子との説もある)。信広は松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の祖となり、子孫はその後も松平郷にとどまって442石取りの交代寄合旗本となった。城の南東直下を新城街道(国道301号)が通る。
城は標高300メートル、(松平城址縄張図)の1が主郭で、その西に3段の細長い曲輪(2~4)が配置されている。これらの曲輪を南、東、北の3方向から囲むように横堀Aが巡らされており、途中、数ヶ所で竪堀となって斜面を下っている。そのほかに櫓台と思われる遺構Bや井戸跡Cなどが残っている。
廃城の時期については諸説があり、定かではない。
豊田市教育委員会