新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-11
所在地(鎮座地)
愛知県豊田市松平町赤原13 (徳川家康公始祖松平氏館跡)
神社名
八幡神社・松平東照宮(略称 松平東照宮)
祭 神
譽田別命(八幡様)・徳川家康公・松平親氏公・他6柱
例祭日
4月17日より前の土曜(試楽祭、お水取神事)・日曜(例祭、御輿渡御)
由 緒 (松平東照宮略記より)
徳川家康の始祖である初代松平太郎左衛門親氏公が、居をこの地に定め氏神として若宮八幡を勧請したと伝えられる。後世、9代松平尚栄が舘の整備を行い、元和5年(1619)に久能山東照宮より徳川家康公(東照公)の御分霊を勧請し、奉祀した。
昔は例祭に三河国各地より献馬があり盛大な権現祭が斎行されていた。明治維新後は三河国各地からの献馬は中止されたが、近郊集落より献馬、空砲、棒の手などの奉納が終戦(1945)まで続いて来た。
大正5年松平郷内に奉斎の3社が合併し、昭和初期に松平家の舘跡へ境内を拡張して、現在の社殿を新築し旧社殿を奥宮とした。
昭和40年初代松平親氏公を合祀し、八幡神社を松平神社と改める。当社は東照公奉祀以来、「松平の権現様」または「松平の東照宮」と呼称され、出世開運の神、政治の守神、安産の神、厄除けの神として、広く崇敬され親しまれて来た。昭和58年、昔から呼称されてきた
八幡神社・松平東照宮と改称した。
社務所
参考Webサイト
松平東照宮 松平氏発祥の地-松平郷サイト
産湯井戸
撮影:2018-04-11
案内板
産湯井戸の由来
産湯の井戸については伝承が多いが、天文11年(1542)12月26日に岡崎城において松平家康(徳川と改姓)が生誕されたとき、太郎左衛門家7代当主親長が竹筒へ詰めて速馬でこの水を運んで産湯に用いた記録がある。
境内地(元松平家舘跡)には7ツの井戸があったが、此の井戸は最も古く、此の所に舘を構えた当時造られたものである。松平氏の氏神八幡の宮の前庭(今の奥宮)にあり、石畳で囲い石段を下りて水を汲むように出来ている。また、石板の蓋のある井戸は、当時としては極めて珍らしいといわれている。こんこんと湧き出る山清水は非常に美くよく澄んだ水である。また、此の地を井戸の洞とも呼び、井戸を掘った際に尊体(石)を得て氏神として祀り、水神八幡、うぶの八幡、等の異名がある。江戸時代将軍御代替のとき諸国巡検使の巡検地であり、貴重な取扱がされていた。
古くは井水の溢流、濁水などは異常事発生の前兆とされていたが、昭和20年4月16日夜の「お水取」には水枯れで、お水取の神事が出来兼ねた。このときは戦時中で参加者は少人数であったが、敗戦を覚悟したと伝えている。
当社は4月御例祭の前夜試楽祭を斎行後、引続き「お水取」の神事を行っている。高張提灯を前導に浄闇の中に列を正し宮司以下役員、総代、氏子、等で産湯井戸前にいたり、開扉して浄水を汲み取り神前へ供える。翌日、例祭日に御神水として一般に授与している。この水汲のときの水位により農作の吉凶の占をする慣例がある。
御神水は不老長寿、また安産するようにと遠くから来て拝受する人が多い昨今では、立身出世の神、政治の神、安産の神として信仰があり、社務所でこの御神水頂く人が年々増えている。
松平氏遺跡 国指定史跡
撮影:2018-04-11
案内板 (豊田市教育委員会案内板)
国指定史跡 松平氏遺跡 松平氏館跡・松平城跡・大給城跡・高月院
松平氏は江戸幕府の創始者である 徳川家康の祖で、ここ松平町が発祥の地です。
伝承によれば、時宗の修行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり、松平親氏を名乗り、松平城を本拠としたのが始まりといわれています。3代信光の時、後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。
信光は、松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へ侵攻し、西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、松平氏9代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たしました。
家康の死後、太郎左衛門家9代尚栄の時に、東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の池」として松平郷は幕府から敬まれてきました。
平成6年、松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、「松平城跡」、「大給城跡」、「高月院」の4ヶ所が、初期松平氏の状況をよく伝えていることから、一括して「松平氏遺跡」として国の指定史跡にとなりました。
「松平氏館跡」(現松平東照宮)は、3時期の歴史的な段階がありました。初めは、親氏の居館としての松平氏館、つぎに松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館、そして、居館廃絶後、今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。
境内には、「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では3代松平信光が当館で出生した際、この清水を用いたことから、松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文11年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には、竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また、舘跡正面から西側に巡る水堀の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれます。