新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-11
所在地
愛知県岡崎市鴨田町向山38-1
名 称
長親山常念院西光寺
宗 派
浄土宗
本 尊
阿弥陀如来
案内板
岡崎観光文化百選 井田野古戦場
1467年8月23日、松平4代親忠と、寺辺、伊保、八草、挙母、上野の土豪軍が、この辺りで激しい戦いをしました。勝った親忠は、戦死者を敵味方の区別なく葬って塚を築きました。これが今も残る千人塚です。
この西光寺には、家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚もあります。
井田野は、その後3度も激しい戦場となりました。
案内板 (参道右側設置西光寺案内板)
史蹟案内
1.史蹟井田野之合戦
千人塚
1.市指定文化財
大衆塚
露坐阿弥陀如来
1.芭蕉句碑
西光寺
参考Webサイト
井田野古戦場 岡崎観光協会の岡崎おでかけナビ サイト
大衆塚・阿弥陀如来石像
撮影:2018-04-11
案内板 (岡崎市教育委員会案内板)
岡崎市指定文化財 西光寺
彫刻 阿弥陀如来石像 1躯
座像の阿弥陀像で、蓮華座の上にあり、銘文が像の背面真中に刻まれている。風化が進んでいるが、「永禄3年5月」の銘が確認できることから、桶狭間の合戦の後、織田信長と松平元康との戦いにて、戦死した者の霊を弔うために建てられたものと考えられる。
総高 121.5センチメートル
肩幅 69センチメートル
膝幅 109.0センチメートル
昭和42年9月14日指定
岡崎市教育委員会
芭蕉句碑「夏草や」
撮影:2018-04-11
案内板
芭蕉翁塚
夏草や 兵どもが ゆめの跡
この句は、俳聖松尾芭蕉が元禄2年(1689) 曾良をともなって、奥の細道を旅した時、平泉で夏草の茂る中に、戦いに消えた兵士をしのんで作ったのである。
ここ、井田野も、また、戦国時代多くの兵士が戦った古戦場である。
寛保3年(1743)10月 芭蕉翁亡くなって50回忌に、菊里亭座明を中心とする当時の岡崎連中が、この地にふさわしい夏草の句碑を建立し、高風をしたったのである。その時「ゆめのあと」という句集1巻を残している。
この「夏草塚」は、岡崎市内の芭蕉句碑8基中、最古のものである。
昭和60年秋記す
もちの木
撮影:2018-04-11
案内板 (岡崎市案内板)
ふるさとの名木
向山のもちのき
みんなで大切に 保存しましょう
指定の日 平成3年2月22日
岡崎市
千人塚
撮影:2018-04-11
案内板 (岡崎市教育委員会案内板)
千人塚
市指定史跡 昭和49年1月11日指定
松平氏が発展していく過程で、周辺各地の勢力との戦いが繰り返され、井田町から鴨田町にかけての地でも、井田野合戦と呼ばれる戦いが数度におよんだ。
応仁元年(1467)、明応2年(1493)には、加茂郡をはじめとする勢力がこの地に進出、安城松平家の親忠ら松平一族が井田野に迎えうち、これを撃退したと伝えられている。
親忠は、この合戦の戦死者を敵味方の区別なく埋葬して塚を築いたといわれ、後に千人塚と呼ばれるようになった。
低い円墳状の地の墳頂に、約2メートル程の石碑が建てられている。碑銘は、正面が「南無阿弥陀仏」、左側面が「井田埜戦亡精霊金台」、右側面が「元禄九丙子年八月十五日
大樹寺廿八世 忍誉碑銘焉」である。その他にも小さな碑あるいは墓が20基程建てられている。
岡崎市教育委員会
補足
千人塚への案内板には「これより50m先」とあるが、もう少し長く100mほどに感じられる。細い道を歩く。
観音様と無縁仏群
撮影:2018-04-11