新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-11
所在地
愛知県岡崎市松本町42
名 称
能見山瑞雲院松應寺
宗 派
浄土宗
開 創
永禄3年(1560)
本 尊
阿弥陀如来 (聖徳太子作と伝わる)
開 山
徳川家康
案内板
岡崎観光文化百選 松応寺
1549年、松平8代広忠(家康の父)が岡崎城内で殺されました。そのなきがらを密葬したのが この地であったといわれています。
家康は、1560年、桶狭間の戦いの後、岡崎城主となり、父のために墓の近くに寺を建てました。自分で植えた松が念願どおり茂ったこと、人質かの身から独立し三河の地に再び帰られたことを喜び、寺を松応寺(しょうおうじ)と名付けたと伝えられています。
案内板
能見山瑞雲院松應寺 (抜粋)
天文18年(1549)3月6日、岡崎城主、松平広忠公が城中にて逝去
能見ヶ原月光庵(当時)に埋葬される。同年11月、岡崎に帰った松平竹千代(家康公)は、早速、当地に参り、父君・広忠公の墓上に小松1株を植え「松平家一族が繁栄するために、この松が枝葉繁り成長して千歳の隆運を示すべし」と祈願する。
永禄3年(1560) 桶狭間の戦の後、岡崎城主となった松平元康(家康公)は、当地に父君の菩提のため、寺を建立する。墓上の松が、念願通りに緑深く成長するのを見て「我が祈念に應ずる松なり」として、松應寺と名付ける・
慶長10年(1605) 広忠公57回忌に当り、大造営を行う。御廟所、松石垣、玉垣、鳥居、拝殿、門、霊屋、本堂、方丈、庫裡、塔頭などを建立
寛永10年(1633) 家光公、仏殿、御廟、鐘楼、三門、惣門などを建立
寛永12年(1635) 尾張徳川家の始祖・義直公が梵鐘を鋳造、銘は徳川幕府に仕えた儒学者・林羅山(林道春)
慶安3年(1650) 家光公より伝馬朱印状を受ける。(この朱印状により江戸~京都の各宿場で松應寺住職に人馬が提供された)
明治9年(1878) 明治改革のため大庫裡を売却、同16年 惣門、書院なども処分する。
大正4年(1915) 東照公(家康公)3百年忌法要に際し、御廟所、土塀を修復
昭和20年(1945) 7月20日、米軍の岡崎空襲で、御廟所、太子堂を除き焼失、12月、仮の鐘堂を建立、戦後復興の願いを込めて除夜の鐘を撞く
昭和21年(1946) 仮の本堂を建立、翌22年、地元の戦後復興のため、境内の約半分の土地を商店街、地元住民に開放する
昭和27年(1952) 現在の本堂が落成
昭和37年1962) 広忠公御廟所が岡崎市文化財に指定される。
昭和55年(1980) 鐘堂を再建
参考Webサイト
松應寺サイト facebook
松平広忠公御廟所
撮影:2018-04-11
案内板
松平広忠公 御廟所 (岡崎市指定文化財)
徳川家康公の父・松平広忠公は天文18年(1549)3月、岡崎城中で家臣に刺殺され、亡き骸は、この地に埋葬されました。
当時、人質として尾張にいた松平竹千代(家康)は、同年11月、岡崎に帰ると、この墓上に小松1株を植え、松平一族の繁栄を祈願しました。
永禄3年(1560)、家康は、桶狭間の戦の後、岡崎城主となり、この地に1寺を建立しました。手植えの松が緑深く、東方に伸長するのを見て、「我が祈念に應ずる松なり」として、松應寺と名付けました。
この廟所は、慶長10年(1605)、広忠の57回忌にあたり、本堂などと共に造営、整備され、家康を始め、秀忠、家光など歴代将軍が参詣しました。
梵鐘
撮影:2018-04-11
案内板
松應寺の梵鐘
この梵鐘は、寛永12年(1635) 家康の9男で尾張徳川家の始祖、徳川義直が鋳造・寄進したもので、銘は江戸時代の有名な儒学者・林道春(林羅山)です。
太平洋戦争中、寺院の梵鐘は、武器製造などのため、供出が強制されましたが、この梵鐘は文化的な価値が高いとして、供出を免れました。
しかし、昭和20年(1945)、米軍の空襲で、梵鐘も戦火に包まれましたが、幸い破砕はしませんでした。鐘撞き堂は、昭和55年にようやく再建され、現在も、鐘の音を響かせてくれています。