新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2015-06-12
名 称
伊賀八幡宮
所在地
愛知県岡崎市伊賀町東郷中86
創 建
文明2年(1470)
創建者
松平4代親忠公
由 緒 (伊賀八幡宮案内板)
当伊賀八幡宮は 文明2年(1470) に 松平4代親忠公が伊賀国(三重県)から下井田の地に移しまつったのがはじまりである。その後、下井田を伊賀というようになった。それから、松平家(徳川家の祖)徳川家代々の祈願所となったのである。
8代広忠公は、天文4年12月 織田信秀が岡崎城を攻めとろうとしたとき、八幡宮に祈願して井田ヶ原に迎えうった。そのとき 先頭に馬に乗った武者が現れ、敵陣めがけて白羽の矢を放った。すると八幡宮の森の上から黒雲がわき、あらしをよんで、白羽の神矢が雨のように敵陣にとんだ。たちまち、3万余の敵は敗退した。広忠公は、みずからその神矢を拾って、八幡宮に奉納した。
家康公も、尊敬の念きわめて厚く、出陣にはかならず祈願した。関ヶ原の戦や大坂の陣には神殿が鳴動し、鳥居が移動したりするなど ふしぎなことが起こった。また、桶狭間の戦に利なく軍を引かそうとしたとき、矢作川に八幡宮の神使の鹿が現われて、家康公は無事に大樹寺にはいることができた。こうして、八幡宮は松平家徳川家の守護神として、尊敬をあつめていたのである。
社殿の造営はたびたび行なわれ、広忠公の天文年間、家光公の永禄年間、家光公の寛永年間の造築がそのおもなものである。
現在の社殿の大部分は寛永13年造営である。昭和8年になって、本殿、幣殿、拝殿、透塀、御供所、随神門、石橋、石鳥居、ならびに棟札などが国宝に指定された(現在も国の重要文化財)、社殿は、江戸初期の建築の代表で、江戸時代の神社配置形式をよく残しているのである。
伊賀八幡宮
参考Webサイト
伊賀八幡宮サイト
随神門と東照大権現御神像
撮影:2015-06-12
拝殿
撮影:2015-06-12
案内板 (岡崎市教育委員会案内板)
伊賀八幡宮
重要文化財 昭和8年指定
伊賀八幡宮本殿・幣殿・拝殿・透塀
御供所・随身門・神橋・鳥居(付宮殿・棟札)
社伝によれば、文明年間(1469~87)松平4代親忠が伊賀国から勧請し、以後 松平・徳川氏の尊崇を受け、3代将軍家光以降540石の朱印領を受けた。
慶長16年(1611)家康の造営で規模が整い、寛永13年(1636)家光の造営で現在の社殿となった。その後も 数度にわたって幕府の命により 修理が成されている。
本殿は、三間社流造で 当初寛永期建立とみなされていたが、昭和27年の調査により、家光造営以前の慶長16年(1611)建立と推定されるに至った。
社殿は権現造りの朱塗り、随所に彩色が施され 本殿の斗拱廻り、妻飾り並びに向拝の据破風(千鳥破風)などには江戸初期の特徴が示されている。
岡崎市教育委員会
神橋と鳥居
撮影:2015-06-12