新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
沿革
撮影:2018-04-13
所在地
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
案内板 (浜松市教育委員会案内板)
浜松市指定史跡 二俣城址
[二俣城の構造]
標高90mの大地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪が、ほぼ一直線上に配置されている。天守台のある本丸の南・北に、それぞれ虎口を設け、北虎口は喰い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には堀切がある。
[歴代二俣城主]
二俣には現在、城跡が3か所ある。この城山のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、そしてこの城山の「二俣城」である。これらの3城は、わずか2㎞程の距離内にあり、当時、この一帯は「二俣郷」と呼ばれていた。このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えても、どの城を指すのか、確定するのは難しい。
ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後~1560年)までと考え、「二俣城・鳥羽城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から元亀・天正・慶長初年(~1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。
[二俣城をめぐる攻防]
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。
--元亀3年の攻防--
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に侵入し、二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。
--天正3年の攻防--
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原・渡ヶ島に砦を築き、二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧が底をつき、城を明け渡した。そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
この間、大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。
[徳川信康自刃事件]
大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名なものに家康の嫡子信康自刃事件がある。一般には、信康とその母築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を切腹させるよう家康に命じたとされている。家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。この事件は戦国哀史として広く知られている。
平成8年11月1日 浜松市教育委員会
補 足
浜松市役所のホームページが「祝!国指定史跡誕生! 二俣城跡及び鳥羽山城跡」と、2017年11月18日付で報じています
参考Webサイト
祝!国指定史跡誕生! 二俣城跡及び鳥羽山城跡 浜松市サイト
二俣城址 浜松・浜名湖観光情報サイト
二俣城 ウィキペディア
二俣城址 浜松情報Bookサイト
遠州浜松を見る!19二俣城 綾部の文化財日誌サイト