新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
起源・沿革
撮影:2018-04-13
名 称
浄土宗 信康山長安院清瀧寺
所在地
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405
本 寺
京都知恩院
開 創
天正9年(1581)
本 尊
阿弥陀如来
案内板 (山門前の浜松市案内板)
清瀧寺
当寺は、京都知恩院の末寺、本尊は阿弥陀如来
天正7年(1579)9月15日、岡崎次郎三郎信康(徳川家康嫡男)が二俣城において生害
時に年21歳、遺骸を当寺に葬り、法名を騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門といいます
天正9年 徳川家康は、当寺に来臨し、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名付け、信康に清瀧寺殿と諡(おくり名)をしました。
ここには、信康の他に、殉死した吉良於初、当時の二俣城主大久保忠世、三方原で討死にした戦死した中根平左衛門正照、青木又四郎吉継らの墓もあります。
浜松市
案内板 (「井伊家ゆかりの地」として設置された案内板)
清瀧寺
天正7年(1579)、織田信長の嫌疑にかけられた徳川家康の長男・信康は二俣城内で自刃し、遺骸をこの地にあった草庵に埋葬しました。
後に、徳川家康は、信康に「清瀧寺殿」のおくり名を与え、寺の名前を清瀧寺となづけました。境内には、信康をまつった廟所があります。信康の実母である築山殿の母は井伊家の出身であり、信康は井伊直虎と同じく井伊直平を曾祖父にもちます。
補 足
諏訪神社に向かって左手に、信康堂を含めた清瀧寺参道があり、諏訪神社に向かって右手に「本田宗一郎ものづくり伝承館」がある
諏訪神社の創立は不詳であるが、文治2年(1186)に遠江守護職安田義定東上の途次参拝と同社案内板に記されている
参考Webサイト
清瀧寺 浜松・浜名湖観光情報サイト
清瀧寺(浜松市) ウィキペディア
清瀧寺 浜松情報Bookサイト
遠州浜松を見る!18清瀧寺 綾部の文化財日誌サイト
信康廟
撮影:2018-04-13
案内板
天正7年(1579)9月15日、岡崎次郎三郎信康が信長の口難に遭い、二俣城において自刃した。
この時、浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二俣には浄土宗の寺院は何ヶ寺あり、寺の名は何というか書き出せと仰渡しがあった。
ところが、浄土宗の寺は1ヶ寺もないという。それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其外諸堂を建立した。
ここには、殉死した吉良於初(初乃丞)、当時二俣城主だった大久保七朗右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又四朗吉継の墓もある。
参考Webサイト
清瀧寺 浜松・浜名湖観光情報サイト
清瀧寺 浜松情報Bookサイト
遠州浜松を見る!18清瀧寺 綾部の文化財日誌サイト
信康堂
撮影:2018-04-13
信康堂脇碑 (信康の会建立)
岡崎三郎信康
信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の永禄2年(1559)3月6日、家康人質の今川家支配の駿河で生誕。母瀨名(築山御前)は関口義広の娘で、今川義元の姪に当たる。信康は永禄10年(1567)5月、信長の娘徳姫(五徳)と結婚、共に9歳。
今川の血を引く築山御前と今川を滅ぼした織田の娘の嫁舅の確執と、若夫婦不仲から、徳姫は天正7年(1579) 父信長への12個条の手紙の中で、築山御前が武田と内通と書かれ、それが原因で信長は信康の切腹、築山御前の殺害を要求、同年9月15日、信康は幽閉先の二俣城で切腹。介錯役の服部半蔵正成は何としても、刃を向けられず、検視の天方山城守通綱が介錯したと伝えられる。享年21歳。
信康の類い稀な能力の、将来を恐れた信長厳命と云う通説のほか諸説はあるが、安泰・太平の世を築いた家康草創の頃の、信康夭逝は徳川300年の礎となった運命の若武者であったと言うことができるのではないか。
補 足
信康堂の脇碑は、平成22年10月吉日建立、「信康の会(会長 木村邦男)」が寄贈したもの。信康堂には信康像が2体安置されており、左が武者姿を、右が公式行事に出席する姿をイメージして地元水窪町の中谷博彦氏がチェンソーで同年作製したという。
信康堂の両脇に立てられた旗には、文武両道の若武者 岡崎三郎信康公の街 信康の会」の文字が染め抜かれている。
参考Webサイト
徳川信康の木造が安置 ブログ「自然の恵み」
二俣・信康の会 遠江守護 遠州鎧仁會 体表のブログ
清瀧寺 浜松情報Bookサイト
遠州浜松を見る!18清瀧寺 綾部の文化財日誌サイト