新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-14
名 称
高野山真言宗 青林山頭陀寺
所在地
静岡県浜松市南区頭陀町214
開 創
大宝3年(703) -飛鳥時代-
開 山
円空
本 尊
薬師瑠璃光如来
案内板
頭陀寺城跡
頭陀寺はかって天竜川下流にあった広大な「川勾荘(かわわのしょう)」の現地荘官として、四十六所明神(現在は津毛利神社と改称)とともに荘園の中核をなしました。
往時には多くの塔頭寺院をかかえ、寺域も広く、門前には市場もたちました。当時の境内には戦国大名今川氏に仕えた武将松下之綱の屋敷があり、ここ一帯は別名頭陀寺城とも呼ばれました。松下屋敷には、少年時代の豊臣秀吉が天文20年(1551)から3年にわたり奉公していたと記録にあり、この寺の付近には鎌研池や目刺橋など秀吉にかかわる伝承地も残っています。
なお、 松下氏の一族は井伊氏とも近く、父・直親を殺された幼少の井伊直政を匿い、母の再婚相手となった松下源太郎(清景)が直政を養子として、今川氏の追手から保護しました。また、松下之綱の娘は柳生宗矩に嫁ぎ、柳生十兵衛を生んでいます。
その後、今川氏に反攻したした松下氏や飯尾氏らとの攻防で、永禄7年(1564)頭陀寺は炎上してしまいましたが、後年、縁のあった豊臣秀吉、徳川家康の寄進により復興しました。
参考Webサイト
頭陀寺城跡・松下屋敷跡 浜松・浜名湖観光情報サイト
頭陀寺城 ウィキペディア
青林山頭陀寺 浜松をもっと楽しくする情報サイト
頭陀寺城 「ニッポン城めぐり」サイト
道標「頭陀寺薬師道」
撮影:2018-04-14
案内板 (山門右前の道標に添えられた案内板)
浜松市内最古の道標 「頭陀寺薬師道」道標 1711年建立
現在2本有り、こちらの1本と墓地に向かう小路の西門の横に1基有ります。
高さ120センチ、横20センチの石柱で
「頭陀寺薬師道」と刻まれ、後側に「正徳元龍集辛卯九月十二日院主意傳□□」の陰刻があります。
- 元々は、東海道沿いの植松町に有り道路拡幅の為、移設。もう1基は、掛塚街道沿いにあったが移設
- 江戸本材木町七丁目夏□氏の名が刻む
- 千手院院主意傳が建立
三尊仏
撮影:2018-04-14
案内板
[右側] 浪切不動明王
高野山別格本山南院の御本尊様。弘法大師が唐から帰朝の際、船の先端へ安置し、暴風雨や波風を切り、お大師様を御守りしたお不動様。また、平将門の乱・元寇の役の折にも霊験を表した。
[中央] 水掛一願地蔵尊
明治時代前期作で、平成9年~10年にかけて修理され、太平洋戦争でも被災が無かったお地蔵様。平成29年3月 浜松市認定文化財指定。
[左側] 修行大師(弘法大師)
修行中のお大師様。真言宗の宗祖。
役行者(役小角)堂
撮影:2018-04-14
案内板
役行者(役小角)
延享3年(1746)正月建立
「頭陀寺法印 権大僧都 大徳院 善徳院」の印刻があります
役小角
奈良時代の呪術者 大和国の人
葛城山で修行し特殊な呪術を身につけ、699年、怪しげなことを言って世間を惑わしたとされ、伊豆大島に流されたが、後に許される。
大峯山から熊野にかけて修験道ができ、山伏修験道の開祖とされた。
寛政11年、朝廷から「神変大菩薩」の諡号が贈られた。
参考Webサイト
役小角 ウィキペディア
松下稲荷
撮影:2018-04-14
案内板
稲荷堂
当山の鎮守堂でお稲荷さんが祀られています。元は、今の頭陀寺第1公園に松下屋敷があり、松下は元近江源氏の後で、稲荷様というは八幡神社で、その社殿のある所を八幡と申して、祭神は応神天皇・敦実親王が祀られ、稲荷様は相殿となっていました。
こちらの松下稲荷は明治時代に移設したものです。元々の当山の鎮守様は、頭陀町公会堂にある熊野神社、恩地町にある白山神社、今は存在しませんが金山神社でした。こちらは、明治の神仏分離令により、当山から今の場所へ移設されました。
三公像
撮影:2018-04-14
右から
「松下家の養子となった頃の井伊直政公 14才」
「竹千代時代の徳川家康公」
「浜松時代の少年豊臣秀吉公 14才」
三公像の手前に脇碑があり、三公紹介文が次のとおり刻されている
脇碑の碑文
--松下家の養子となった頃の井伊直政公 14才--
この地は井伊直政公(虎松)ゆかりの地である。直政公は幼くして戦乱で父をうしなった。母は直政公を守るため、ここ頭陀寺城(松下屋敷)から出た松下源太郎清景と再婚。直政公は松下姓を名乗った。
松下一族は修験(山伏)とつながりが深く、徳川家の隠密も出した。直政公は鳳来寺(愛知県)やこの地で武士のたしなみを学び、1575(天正3)年、15才で、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・(井伊)次郎法師の計らいで、徳川家康公にお目見えし、側につかえる小姓となった。翌年、直政公は武田家の忍びに襲われた家康公の危急を救い、井伊谷に3千石を与えられ、井伊家再興を果たした。
その後も、家康公最愛の家臣として天下取りを手伝い、譜代大名では日本最大の18万石の城主となった。
--竹千代時代の徳川家康公--
家康公は竹千代とよばれた幼いころに中村屋敷(雄踏町)から馬に乗ってこの頭陀寺城「松下屋敷」を訪れた、と当山の住職に言い伝えられている。
また、永禄11年(1568)12月、家康公が遠江国に攻め入った時、頭陀寺の松下一族は、いちはやく家康公に味方した。このとき、家康公はまず橋羽村(天竜川町)の妙恩寺を本陣としたが、安間村から頭陀寺にかけても陣取りをした。「武徳編年集成」には「18日、神君(家康公)…頭陀寺ニ張陣シ給フ」と記されている。ここを足がかりに、家康公は引間城(元城町)を手に入れようと、松下与右衛門等を使いにたてて城の明け渡しをせまったが、応じなかったため、これを攻め落として入城。引間城を「浜松城」と名づけ、以後17年間住んだ。
浜松時代の家康公は、苦労から多くを学びとった。武田信玄公と戦った三方ヶ原合戦では生涯最大の敗北を経験したが、この失敗から多くを学び、天下統一をなしとげた。
--浜松時代の少年豊臣秀吉公 14才--
秀吉公は1551(天文20)年 14~16才までの3年間をここ頭陀寺城(松下屋敷)ですごした。ふるさとの尾張国(名古屋市中村区)から針を売りながら、この地にきて、豪族・松下嘉兵衞に見いだされ、その家来となった。頭陀寺は秀吉公が初めて武家への仕官(就職)をかなえた地である。
「太閤素性記」によれば、ここでの秀吉公は、よく働き、よく学び、「主人の心にかなわぬことがなかった」という。いまも頭陀寺地区の天白神社脇には、秀吉公が鎌砥き、手裏剣の稽古をした伝説をのこす「鎌研ぎ池」がある。その後、秀吉公は尾張国へ戻って織田信長公に仕え、武将として出世し、天下人にまでなった。
撰文 史学博士 磯田道史