新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
起源・沿革
撮影:2018-04-13
名 称
曹洞宗 高松山西来院
所在地
静岡県浜松市中区広沢2-10-1
開 山
月窓義運(げつそうぎうん)
開 創
正長元年(1428)
本 尊
釈迦牟尼仏
案内板 (浜松市案内板)
西来院
曹洞宗、高松山と号し、寒巌13派中月窓派と称した。月窓義運禅師が正長元年(1428)に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏。長藤の寺として親しまれている。
墓苑には徳川家康の正室築山御前の廟堂(月窟廟)をはじめ、家康の異父弟松平源三郎康俊、江戸時代の浜松女流歌人杉浦真崎、森繁子などの墓がある。
戦国乱世の悲劇の女性築山御前は天正7年(1579)佐鳴湖畔におき数奇な運命のもとに散華した。38歳。法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼。戦災のために焼失した廟堂は昭和53年の400年忌に復原された。
境内の森は、野鳥の楽園で、美しい景観を呈している。
浜松市
案内板
築山御前
静岡市が出身地であったから「お瀨名の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永、母は今川義元の妹である。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚、長男信康、長女亀姫を生んだ。
家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので、「築山御前」と呼ばれた。同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引と、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的、人間的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。
力において優れていた信長の命令とはいえ、三河の為、徳川家康安泰のために、屈服せざるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散華した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じ得ないものがある。
時に天正7年8月29日(西暦1579年9月29日) 御前38歳。家康これを哀れみ「い翁禅師」に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。
法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼
補 足
築山御前の廟堂に掛けられた扁額「月窟」は、築山御前400年忌を記念して昭和53年に廟堂を復原したときに、永平寺貫首であった慈眼福海禅師の書で、廟堂右前方に建つ碑「月窟廟」は、昭和58年に慈眼福海禅師・秦慧玉禅師が廟堂を訪れたのを記念して建立されたものらしい。
参考Webサイト
西来院について 旅に行き隊!サイト
西来院 浜松情報Bookサイト
遠州浜松を見る!26西来院 綾部の文化財日誌サイト