新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
犀ヶ崖と古戦場碑
撮影:2015-06-13
所在地
浜松市中区鹿谷町 犀ヶ崖公園内
案内板
犀ヶ崖
犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下流450メートルの間に、急な崖が連続している。この付近では、幅約30メートル、両岸とも深さ10数メートルの絶壁をなす。元亀3年(1572)12月22日、徳川家康は、三方原において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰ったが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。
崖上の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念仏が行われる。静岡県指定史跡。
浜松市
大島蓼太句碑
江戸時代の俳人・大島蓼太(1718-1787)は、浜松を訪れたときに、次の句を詠み、句碑が当古戦場に建てられている。
岩角に 兜くたけて 椿かな
犀ヶ崖資料館(宗円堂)
撮影:2015-06-13
所在地
浜松市中区鹿谷町25-10
案内板 (浜松市教育委員会案内板)
宗円堂について
宗円堂はもと清雲寺といい、宗源院の末寺でした。犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから、念仏堂とも呼ばれていたようです。
宗円とは、遠州大念仏を伝えたと言われる浄土宗の僧の名で、そのため1930年頃から宗円堂と呼ばれるようになり、1935年には遠州大念仏団の本部となりました。
また、1983年4月に主として遠州大念仏に関する資料を展示する犀ヶ崖資料館としました。
浜松市教育委員会
参考Webサイト
犀ヶ崖資料館サイト
本多肥後守忠真顕彰碑
撮影:2015-06-13
所在地
浜松市中区鹿谷町 犀ヶ崖公園内
案内板
本多肥後守忠真顕彰碑
この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。
本多忠真は、徳川家草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。
本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました。道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし 友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には 本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。
また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。
参考サイトWeb
犀ヶ崖資料館サイト
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑
撮影:2015-06-13
所在地
浜松市中区布橋2丁目(犀ヶ崖公園向かい)
永禄4年(1561)、永禄5年(1562)の戦では軍功を上げてた。しかし、永禄6年(1563)の三河一向一揆では一揆側に加担し 家康に敵対したが、後に帰参を許された。
元亀3年(1573)の三方ヶ原の合戦では、浜松城の留守居役であったが、自軍の敗色濃厚を知り、家康の救援に向かい、家康を逃がすために家康の身代わりになって、武田軍に立ち向かい討ち死にしたといわれる。
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑は吉信の忠義を称える碑であり、また吉信は夏目漱石の祖先に当たるという。
参考Webサイト
犀ヶ崖資料館サイト