新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-13
所在地
中区元城町111-2
案内板
元城町東照宮由緒
御祭神 徳川家康公 事代主命 大国主命
明治維新後 浜松代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り 明治17年元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられ その管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが
昭和11年その所有権が井上家より 亦 管理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ その後 元城町の氏神として奉斎する事となり 村社に列せられた
昭和20年戦災により焼失せるも 昭和34年に 社殿手水舎社務所等を再建し 今日に至る
案内板
引間城本丸跡
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込(まごめ)川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋(まちや)が発達しました。「船越」や「早馬(はやうま)」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。歴代の城主には、尾張の斯波(しば)方の巨海(こみ)氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾(いのお)氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衞(かへえ)(頭陀寺(ずだじ)城城主)がいました。松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。
徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。元亀3年(1572)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(げんもく)(玄目)口」へ撤退したと言われています。このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴(ほりおよしはる)以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。明治19年、旧藩士・井上延陵(いのうええんりょう)が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。
平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学 磯田道史教授
終戦直後建立祠台座
撮影:2018-04-13
所在地
中区元城町111-2
案内板
終戦直後建てられた祠の台座
昭和20年6月18日の米軍B29爆撃機100機による浜松大空襲で、元城町東照宮社殿及び森林全焼するも、終戦当時の元城住民は小さな祠を設けまして、氏神様として奉斎を続けたのです。
このことが昭和25年6月から始まった浜松土地区画整理事業の危機で、この東照宮の境内が換地として破壊されることがなく、2016年現在500年前の引間城跡として、日本遺産候補になれましたのも、この台座のお陰です。
氏子 兼子□男 記
若き日の家康・秀吉と引間城
撮影:2018-04-13
所在地
中区元城町111-2
案内板
若き日の家康・秀吉2公と引間城
元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。
戦国時代のこの城には、後に天下人となる2人の武将が相次いで訪れています。
天文20年(1551)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。
元亀元年(1570)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。
この城は期せずして、2人の天下人が戦国武将としての1歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と2公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。
秀吉公(1536~1598)
浜松時代 1551(16歳)~1553(18歳)
家康公(1542~1616)
浜松時代 1570(29歳)~1586(45歳)
監修 浜松市文化顧問 磯田道史