新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
一の鳥居
撮影:2014-05-20
案内板 (静岡市案内板)
久能山東照宮
久能山には、推古天皇のころ(592~628)、久能忠仁が建立したと伝えられた久能寺があった。静岡茶の始祖といわれる聖一国師がここで修行し、また、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の鉄舟寺に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。
徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。
薨去後、その遺言によりここに葬られた。2代将軍秀忠によって社殿が造営された 我が国最初の東照宮である。
権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、江戸時代を代表する大工棟梁、中井大和守正清の手によって造営され、本殿・石の間・拝殿が国宝に指定されている。
彫刻、模様組物等は桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を伝えている。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。
静岡市
参考Webサイト
久能山東照宮サイト
久能山徳音院
撮影:2014-05-20
案内板
久能山徳音院縁起
徳音院は徳川家康をはじめ三代将軍に仕えた南光坊天海(慈眼大師)により開かれたお寺です。御本尊は家康ゆかりの薬師如来(薬師瑠璃光如来)で、そのほか不動明王、財福聖天、厄除開運の両大師おまつりする駿河の霊場です。
徳川家康は元和2年4月17日に亡くなり遺命により久能山へ納められました。
家康を神様としてお祀りするにあたり、将軍秀忠は天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号をいただき、元和3年4月には天海大僧正により日光山に改装されました。
家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました。
久能山には、推古天皇のころ(592~628)、久能忠仁が建立したと伝えられた久能寺があった。静岡茶の始祖といわれる聖一国師がここで修行し、また、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
参考Webサイト
久能山東照宮サイト
駿河稲荷社
撮影:2014-05-20
案内板 (久能山東照宮社務所)
駿河稲荷社
御祭神 稲荷大神
御例祭日 2月8日
当社は 元久能山目代(代官)杉江家が伏見稲荷大社より勧請して家敷内に祀っていたものを 昭和57年 当所に移したものである。
古来より 稲荷大神は 五穀豊穣 商売繁盛の神として信仰されており 2月の初午、二の午の日に参拝すると 霊験あらたかである。
久能山東照宮社務所
一ノ門と門衛所
撮影:2014-05-20
勘助井戸と表参道
撮影:2014-05-20
博物館
撮影:2014-05-20
案内板
博物館
久能山東照宮伝世の宝物を中心に、資料総数2000点を収蔵する。
収蔵品の特色としては、家康公がスペイン国王より贈られた洋時計を始めとする舶載の品々がまとまっていること、徳川歴代将軍の武器・武具が多いことである。
社務所
撮影:2014-05-20
所在地 静岡市駿河区根古屋390
樓門
撮影:2014-05-20
案内板
重要文化財 樓門
前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので、勅額御門とも称する。元和3年の建造である。西暦1617年
案内板
国指定史跡 久能山
指定年月日 昭和34年6月17日
久能山の歴史
久能寺
久能山には、古く平安時代の初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害の地ををつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(1350~1352)や室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。
久能山城
駿府に攻め入った武田信玄は、永禄11年(1568)に要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。
久能山東照宮
元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。
このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。
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久能山東照宮サイト
久能稲荷神社と厳島神社
撮影:2014-05-20
久能稲荷神社と厳島神社は 合殿し樓門を入った右手に建っている
久能稲荷神社
御祭神 保食神
御例祭日 4月9日
東照宮の創建前から 久能山頂近くに鎮座していたが 明治年代に暴風で社殿が倒壊し 現在地に遷座したという
厳島神社
御祭神 市杵島姫命
御例祭日 6月17日
明治期の神仏分離により 元辨財天が厳島神社になったという
神厩
撮影:2014-05-20
国指定重要文化財の神厩(しんきゅう)は 樓門を入った左手に建っている
東照宮創建時は 家康公の愛馬を飼育していた
現在は 名工の左甚五郎作と伝えられる神馬(木製)が納められている
家康公の愛馬は 神廟裏手石垣南隅に埋葬したと伝えられているとのこと
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久能山東照宮サイト
鼓楼
撮影:2014-05-20
国指定重要文化財の鼓楼は 創建当時は鐘楼であったが 明治の神仏分離で 鐘を太鼓に替え 名称を変えたもの
太鼓は 明治6年(1873) 旧幕臣小島勝直が 江戸城にあったものを奉納したと伝えられているという
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久能山東照宮サイト
五重塔跡
撮影:2014-05-20
案内板
五重塔跡
3代将軍家光公の建立で高さ30米 輪奐美を極めたものである。
明治6年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ
中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものです。
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久能山東照宮サイト
神饌所
撮影:2014-05-20
国指定重要文化財の神饌所は (透塀)で囲まれた社殿区域の南西外側(左下側)・唐門階段下左奥にあって 渡廊を経て 本殿殿左側にある仮神饌所と連結している
神饌は 神様へのお供え物であり 神饌を準備するところを神饌所という 毎朝 ここで準備(料理)された神饌が 仮神饌所に運ばれるという
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久能山東照宮サイト
実割梅
撮影:2014-05-20
実割梅は 唐門階段左下で 神饌所右前に植えられている 写真の右奥が実割梅で 左手前のは八房梅
実割梅は家康公が駿府城で自ら育てていたもので 家康公没後の江戸時代は実割梅の梅干しが東照宮に毎年納められたが 明治維新後途絶えた
明治9年 実割梅の存続を憂慮した出島竹斎(現在の宮司職)は 徳川慶喜と協議し 駿府城から東照宮へ移植した
勝海舟は 出島竹斎の忠節に感銘し 山岡鉄舟と共に顕彰碑を建てたという
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久能山東照宮サイト
神楽殿
撮影:2014-05-20
神楽殿は 国指定重要文化財です
通常は 神楽を舞うための施設を神楽殿というが 久能山東照宮では 神楽を奏することはなく 武家奉納の絵馬が掲げられたと 伝わってきたという
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久能山東照宮サイト
神庫
撮影:2014-05-20
神庫は 奈良の正倉院と同じ校倉造の建物で 重要文化財に指定されている
博物館ができるまで 東照宮に伝わる宝物類が納められていたとのこと
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久能山東照宮サイト
竈神社
撮影:2014-05-20
竈神社は 神庫へ登る階段の左下にある
創建は 正保3年(1646)で 小さな神社
御祭神は 防火の3柱で 次のとおり
火産霊命(ほむすびのみこと)
興津彦命(おきつひこのみこと)
興津姫命(おきつひめのみこと)
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久能山東照宮サイト
日枝神社
撮影:2014-05-20
案内板
重要文化財 日枝神社
祭神 大山咋命
旧本地堂で薬師如来を安置してあったが、明治3年神仏分離の際に仏像を廃し後に今の名称に改めた
元和3年の建造である。(西暦1617年)
補 足
釣り燈籠2個を含め国指定重油文化財
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久能山東照宮サイト
東門と玉垣(透塀)
撮影:2014-05-20
日枝神社に向かって左手に東門があり 東門は境内参拝路の社殿区域への出入口となっている
東門の左右に連なる玉垣は社殿を囲んでおり 美しい彫刻が施された透塀
東門と玉垣は 共に国指定重要文化財
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久能山東照宮サイト
唐門
撮影:2014-05-20
社殿(拝殿・本殿)
撮影:2014-05-20
本殿と拝殿を石の間でつないで、総漆塗り極彩色を施した権現造社殿は、大工棟梁・中井大和守正清によって元和3年(1617)造営された。以降、全国に数多く創建された東照宮の原型となった東照宮建築であり、平成22年(2010)国宝に指定された。
参考Webサイト 久能山東照宮サイト
廟門
撮影:2014-05-20
家康公の御廟所に通ずる廟門は 本殿の左側奥にあり 国指定重要文化財となっている
廟門の両側は玉垣(透塀)であり 廟門は かっては御宝塔御門と呼ばれていたいう
参考Webサイト 久能山東照宮サイト
廟所参道
撮影:2014-05-20
廟門を入ると直ぐ 廟所参道の階段があり さらに 参道両側に家康公に仕えた武将が奉納した石燈籠が並び その外側に石柵がある
参道奥の石鳥居を潜って 右の階段を登ると 廟所前の平地に達する
廟所参道は 石柵や鳥居を含め 国指定重要文化財となっている
案内板
久能山東照宮における廟所(びょうしょ)の「添石垣(そえいしがき)」について
重要文化財久能山東照宮廟所の石垣は、元和3年(1617)の久能山東照宮造営時に築かれましたが、年を経て崩落の恐れが生じました。このため、天保4年(1833)、廟所宝壇西側の石垣の一部に、「添石垣」を設けて、石垣を二重にし、当初の石垣の崩落を抑えてきました。
この度の重要文化財久能山東照宮社殿等の修復事業にあたっては、廟所の石垣について創建当時の景観に復することとしました。後年築かれた「添石垣」は撤去するものの、史跡久能山の歴史を知るうえで貴重な石垣遺構でり、その歴史的価値を後世に伝えるため現在地に移設しました。
平成19年3月
久能山東照宮
参考Webサイト
久能山東照宮サイト
神廟
撮影:2014-05-20
国指定重要文化財の神廟は 御祭神徳川家康公の御遺骸を最初に埋葬しところで 墓形が宝塔であったので 以前は御宝塔と呼ばれていた
元和2年(1616)の創建当初は 木造桧皮葺造、寛永17年(1640)に 3代将軍徳川家光公が石造宝塔に造替
方位は西 高さは550センチメートル 碑銘はナシ
方位を西にしたのは 次の理由によるといわれている
1.家康公の両親が子授け祈願した鳳来寺が西にある
2.岡崎の松平家の菩提寺大樹寺と家康公誕生地である岡崎城が西にある
[注]
写真上に写っている 神廟前の石柵扉が開いているのは 早朝ゆえに神職が清掃中のためで 通常は閉じられている
廟所手前階段下の賽銭箱上方に 写真下のとおり「東照宮遺訓」が掲げられていた
東照宮遺訓
人の一生は 重荷を負て 遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば 不足なし
こころに 望おこらば 困窮したる時を 思ひ出すべし
堪忍は 無事長久の基 いかりは 敵とおもへ
勝事ばかり知て まくる事をしらざれば 害其身にいたる
おのれを責めて 人をせむるな
及ばざるは 過ぎたるより まされり
久能山東照宮宮司 落合偉洲
参考Webサイト
久能山東照宮サイト
徳川家康の墓-駿府ネット
東照公御遺訓-按針亭
金の成る木
撮影:2014-05-20
案内板
「金の成る木」のいわれ
ご祭神徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります
これが左側の杉の大樹がふさわしかと想われます
この杉は 3代将軍家光公当時に植樹されたものと言われ 約350余年を経ています。
家康公が諸人たちに「金の成る木」を問わせられた これには誰も知らず 公は自ら筆を把られて 3本の木を描き「よろづ程のよ木」「志ひふかき(慈悲深き)」「志やうぢ木(正直)」と書かれて これを常々信用すれば 必ず富貴を得られようと 仰せられた
のち 細川三斎忠興公が これに左右の枝にとお添え遊ばしてはとなり 「あさお木(朝起)」「いさぎよ木」「志んぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木(養正)」「かないむつまじ木」と
左右の枝が繁昌するならば 一段と富貴を得られよう 皆々この「金の成る木」を写し取って 家内のものに教えるようにと 命ぜられたという
これにちなみ 誰とはいはず このところの杉に願掛けとして硬貨をそなえるようになりました ご神縁深き皆様方にも「金の成る木」にあやかられ 毎日が心豊かで すこやかな生活をされますよう 祈念申し上げます
参考Webサイト
久能山東照宮サイト