新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
経緯・沿革
撮影:2018-04-14
所在地
静岡県静岡市葵区西草深町27 (西草深公園)
案内板 (静岡市案内板)
西草深町と徳川慶喜公
「草深町」は、「駿府96ヶ町」の1つで、現在の西草深公園の東側に、2筋の通りに面して一画を占めていました。明治6年(1873)に一帯の武家屋敷を含めて「西草深町」となり、昭和44年に御器屋町などを併せて現在に至っています。
駿府城に近い草深町の近辺には、慶安4年(1651)に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の1つ「二加番」や与力・同心などの武家屋敷が配置されていました。
草深地区には、江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者林羅山の屋敷があり、また明治維新期には静岡学問所頭であった向山黄村をはじめとする学問所の著名な学者が名数居住していました。
西草深公園には浅間神社の社家の屋敷があり、明治2年(1869)6月に静岡藩主となった徳川家達公が社家新宮兵部の屋敷に移り住みました。
徳川幕府第15代将軍徳川慶喜公は、大政奉還の後、慶應4年(1868)2月から謹慎生活に入り、同年7月に駿府の宝台院に移り住みました。
宝台院での謹慎生活が解かれた慶喜公は、明治2年(1869)に紺屋町の元駿府代官屋敷に移り、さらに明治21年(1888)には西草深町に屋敷を構えましたが、東京に戻る明治30年(1897)まで政治の世界を離れ、1市民として過ごしました。
静岡での慶喜公は、狩りや写真を好み、油絵をたしなみ、明治10年代から自転車を購入して市内を乗り回って市民の話題になるなど、多種多様な趣味と共に西洋的な生活を謳歌した当時の最先端を行く文化人でもありました。
中でも静岡で修得した写真撮影の技術から生まれた作品は、各地の風景、生活ぶりを伝える貴重な歴史資料ともなっています。
慶喜公が東京に戻った後の徳川邸は「葵ホテル」となり、さらに、明治37年(1904)には日露戦争の捕虜収容所の1つとして使われましたが、同38年に施設内から出火し焼失してしまいました。
静岡市
補 足
慶喜公が明治21年に紺屋町から西草深町に転居したのは、翌明治22年に開通した東海道線による喧噪を嫌ってのものといわれている。
西草深公園に設置された案内板の地図は、慶喜公関連主要箇所の往時の位置を知るのに役立ち、この地図から判断すると、西草深の慶喜公屋敷跡は、現在の表示では、西草深町の14~15番、29~30番の東部分、31~34番を合わせた辺りとなり、また、西草深ポケットパークに「徳川慶喜公屋敷跡」の石柱が設置されているとのこと。
参考Webサイト
7.「徳川慶喜公屋敷跡」石柱~鉄道を避けて転居~ 静岡県立中央図書館サイト
8.西草深公園「徳川家達屋敷跡」~少年の藩主~ 静岡県立中央図書館サイト
草深町 家康公を学ぶサイト