新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-04-14
名 称
浄土宗 金米山寳䑓院龍泉寺
所在地
静岡県静岡市葵区常磐町2-13-2
開 創
永正4年(1507)
開 山
鎌倉光明寺9世観誉祐崇上人
本 尊
阿弥陀如来立像(白本尊) 国指定重要文化財
案内板 (静岡市案内板)
宝台院 (金米山宝台院)
宝台院は、徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母 西郷の局(お愛の方)の菩提寺である。
西郷の局は、27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康の第3子秀忠を生んだ。家康38歳のときである。
このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻であったということができる。
天正14年12月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立て役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正17年5月、38歳の短い生涯を終った。
後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川300年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。
寺宝 白本尊如来像 (重要文化財) ほか多数
静岡市
補 足
開創時の所在地は、現在の東海道線を挟む広い境内であったが、寛永2年(1625) 秀忠公が現在地の常磐町(旧下魚町)に移転させた。国宝に指定されていた堂宇は昭和15年の静岡大火で全焼、戦災もあって、昭和45年に鉄筋コンクリート造で本堂を再建したという
参考Webサイト
宝台院 宝台院サイト
宝台院 するが企画観光局サイト
光明寺十夜法要 鎌倉光明寺サイト
下魚町と宝台院 家康公を学ぶサイト
徳川慶喜公謹慎之地
撮影:2018-04-14
案内碑 (静岡市建立)
宝台院と徳川慶喜公
明治元年7月、第15代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月23日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事だったからでしょう。この時、目付の中台信太郎(のち駿河藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警戒体制を必要としていました。
一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが、慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ、町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。
尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあって、この町を熟知しており、徳川第2代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、誠心誠意謹慎をされ、翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時、渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの6畳間でした。
明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し、御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したという事です。家達公は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ7才というお年でした、
現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。
静岡市
キリシタン灯籠
撮影:2018-04-14
案内板
キリシタン灯篭
古田織部が製作し、駿府城へ奉納したものを、家康の侍女ジュリアおたあらが信拝した。
その後、キリスト禁教令がでて、おたあは神津島へ配流された。城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移された。