新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
沿革
撮影:2014-05-20
所在地
静岡市葵区駿府城公園1-1
案内板 (静岡市教育委員会案内板)
駿府城
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。9代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)
今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568) 武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には 駿府城の築城を開始し 浜松城から移りました。しかし、徳川家康は、天正18年(1590)
豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ
江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)に 将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には 大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
静岡市教育委員会
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東御門と巽櫓
撮影:2018-04-14
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坤櫓
撮影:2018-04-14
案内板
坤櫓は、二ノ丸南西の隅にある櫓で、1階、2階は7間×7間、3階は5間×5間の広さがあり、2層3階の構造となっています。2階には堀側に石落としを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がなされていました。櫓は、防御の拠点や見張り場などとして建てられますが、坤櫓には、槍が保管されていることを記した古文書が存在し、武器庫としても機能していたことがわかります。
建物の復元は、宝暦年間(1570年代)の絵図資料を基に行なわれました.発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打ち込みハギの技法で積まれた石垣が角部分で2.5mの高さで確認されました。確認され阿石垣は、現在は埋め戻して保存されています。
参考Webサイト
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家康公銅像(本丸跡)
撮影:2014-05-20
台座裏側銘板
誌
徳川家康公は天文11年(1542)三河の岡崎に生れ 幼名を竹千代といい 8才から19才まで今川義元の人質となり駿府に住んだ 義元戦死後は岡崎にかえり
以来戦国武将の間にあって 次第に名望を高め 海道一の弓取りと称された
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦で決定的な勝利を収めて 戦乱の世を収拾 江戸幕府を開き 260余年の安定政治の基を築いた
慶長10年 将軍職を秀忠公にゆずり 同12年大御所として駿府城に移った 元和2年(1616)75才でこの地に歿するまでの10年間は 駿府の黄金時代といわれ
江戸に次いで繁栄した
この間 家康公は安倍川の流路を定め 町並を整え 或は諸業を興し 学問を奨励する等 東海の雄都静岡市発展の基盤をつくられた
星霜ここに360年 あたかも静岡市観光協会創立40周年にあたり 各方面の協力を得て 家康公にゆかりの本丸跡に偉容をしのぶ像を建立し ながく後世にその徳を顕彰するものである
昭和48年11月吉日
徳川家康公銅像建設委員会
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東照公御遺訓碑
撮影:2014-05-20
碑文
東照公御遺訓
人の一生は 重荷を負て 遠き道を行くか如し
急くへからす
不自由を常と思へは 不足なし
心に 望みおこらは 困窮したる時を 思ひ出すへし
勘忍は 無事長久の基 怒は 敵と思へ
勝つ事はかり知りて 負くる事を知らされは
害其の身に至る 己を責て 人をせむるな
及はさるは 過きたるより まされり
徳川 恒孝 書
碑陰
爲 結成拾周年記念
昭和59年(1984)4月建立
おもと大学歴史学級同窓会
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紅葉山庭園(日本庭園)
撮影:2014-05-20
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