新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-03-21
表参・鳥居
所在地
東京都台東区浅草2-3-1
案内板 (台東区教育委員会案内板)
浅草神社(あさくさじんじゃ)
明治初年の文書によると、祭神は、土師真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物人物、真中知はその像の奉安者といわれている。
3神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。
現在の社殿は、慶安2年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数が多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の需要文化財に指定されている。毎年5月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、100体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
平成6年3月
台東区教育委員会
参考Webサイト
浅草神社のご紹介/由緒 浅草神社サイト
浅草神社 「文化探訪-台東区文化ガイドブック」サイト
社殿
撮影:2018-03-21
拝殿 (正面)
拝殿 (内部)
透塀 (本殿・幣殿を囲む)
手水舎・神楽殿・神輿庫
撮影:2018-03-21
手水舎
神楽殿 (こども歌舞伎上演準備中)
神輿庫 (神輿3体が納まっている)
被官稲荷社
撮影:2018-03-21
被官稲荷社 (全景)
被官稲荷社 (社殿)
所在地
東京都台東区浅草2-3-1
案内板 (台東区教育委員会案内板)
被官(ひかん)稲荷社
安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
辰五郎は、上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番の組頭としても、多彩な活躍をした。
社殿は一間社流造、杉皮葺。創建以来のもの。間口約1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政2年9月立之
新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
平成4年11月
台東区教育委員会
参考Webサイト
浅草神社のご紹介/由緒 浅草神社サイト
被官稲荷社 「文化探訪-台東区文化ガイドブック」サイト
浅草寺二天門 (元浅草神社随身門)
撮影:2018-03-21
二天門 (浅草寺)
所在地
東京都台東区浅草2-3-1
案内板 (台東区教育委員会案内板)
二天門(にてんもん) (重要文化財)
この二天門は、慶安2年(1649)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和4年(1618)に建造されたが、寛永8年(1631)と同19年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち、持国天・増長天の2天像に変わり、名称も二天門と改称された。
現在安置されている2天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和32年に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたっものである。
二天門は昭和25年、国指定重要文化財に指定された。
平成23年3月
台東区教育委員会
参考Webサイト
浅草寺の二天門 浅草寺サイト
二天門 「文化探訪-台東区文化ガイドブック」サイト