新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2017-11-16他
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の1つ
三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
開山は明徳4年(1393) 浄土宗第8祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
江戸時代初期、増上寺法主第12世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東18檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領1万石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮百数十軒、常時3千名の僧侶が修学する大寺院でした。
現代でも 浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
参考Webサイト
増上寺
『江戸名所図会 1巻』より「三縁山増上寺」(東京都立図書館サイト)
江戸自慢36興の「増上寺大鐘」(東京都立図書館サイト)
江戸百景余興 芝神明増上寺|錦絵で楽しむ江戸の名所(国立国会図書館サイト)
大門(総門)
撮影:2018-02-12他
所在地
東京都港区芝公園1丁目と2丁目の間の港区道上(信号 芝大門 脇)
解説
大門(総門)
大門は江戸時代末まで増上寺境内の総門であった。しかし、明治初頭に大門がある土地が没収により寺領でなくなり、維持管理が難しくなったため、増上寺から東京府(当時)に寄付した。
昭和12年(1937) 東京市(当時)は、道路拡幅に伴い旧大門を両国回向院に移築(先の戦火で焼失)、新たに旧大門のデザインを引継ぎながら、大きさ1.5倍の高麗門を鉄筋コンクリート造りで再建した。
戦後、増上寺は境内整備の一環として大門の返還を東京都に要請したものの40年間進展がなかった。平成28年(2016)3月に大門が増上寺に無償譲渡され、かつ同年5月に港区登録文化財に指定された。増上寺は、同年11月から耐震補強・外観化粧直しの改修工事を進め、平成29年(2017)4月5日に竣工式を港区長等の出席を得て行った。大門の左右には各2本の柱があるが、それぞれ二重筋交いを施す等の耐震化がなされ、濃い朱色を使うなど落ち着きのある色彩バランスとなり、港区と大門振興会が「祝
改修 大門 再建80周年」の幟を街路に掲げ祝った。
大門右手前にある錦絵碑の左半分に 「江戸百景余興 芝神明増上寺」が彫られており、その上部に次の解説がなされている
風景浮世絵の名手初代安藤廣重がその最晩年の安政5年(1858)に描いた芝神明と増上寺で 江戸百景を選び 更に追加したものであろう 増上寺は徳川将軍家の菩提寺であって
江戸時代の初めからの名所であり その僧たちや 今と変わらぬ参詣見物の大勢の人たちの姿が描かれている。
参考Webサイト
江戸百景余興 芝神明増上寺|錦絵で楽しむ江戸の名所(国立国会図書館サイト)
三解脱門(三門)
撮影:2018-02-12他
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
三解脱門(三門)
慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和8(1622)に再建されました。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、3つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
その大きさは、間口10間余(約19メートル) 奥行5間(約9メートル) 高さ7丈(約21メートル)の二重建て構造。さらに左右には3間(約5.4メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に16羅漢像が安置されています。
鐘楼堂
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
鐘楼堂
寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
徳川4代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸3大名鐘の1つに数えられ、東日本では最大級として知られています。
その大きさ、高さ1丈(約3メートル) 重さ4千貫(約15トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。
大殿(本堂・宝物展示室ほか)
撮影:2017-11-26
先の戦災で焼失した本堂が、昭和49年(1974) 浄土宗大本山の念仏根本道場として 各種儀式法要を行うのに相応しい 新たな設計思想の下に 大殿として再建された
石段を登ったところが2階で本堂、3階が道場、1階は壇信徒控室、地階が宝物展示室となっている
本堂の本尊は阿弥陀如来で室町期の制作
所在地は東京都港区芝公園4-7-35
安国殿と黒本尊
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
安国殿と黒本尊
この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和49年(1974)
当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
建物の老朽化に伴い、平成23年(2011) 法然上人800年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、5月、9月の各15日、年3回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。
徳川将軍家墓所
撮影:2017-11-16他
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後
昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家6代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。
左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には、2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14代家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
光摂殿と慈雲閣
撮影:2018-02-12
光摂殿
「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂・道場として平成12年(2000)に完成
1階が講堂、3階が大広間(非公開だが格天上に日本画家120名の天上絵が嵌め込まれ後世への美術遺産となるという)
慈雲閣
戦災で焼失した開山堂を、平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業として再建
2階が開山堂で、1階は多目的施設
経蔵と増上寺会館
撮影:2018-02-12
案内板 (東京都教育委員会案内板)
東京都指定有形文化財(建造物)
増上寺経蔵
所在地 東京都港区芝公園4-7-35
指 定 大正10年4月
増上寺は明徳4年(1393)酉誉聖聡により武蔵国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長3年(1598)現在地に移転しました。同10年から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門・方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家の菩提寺、浄土宗の関東18檀林の筆頭に就き、浄土宗宗政を総括する総録所となりました。
経蔵は慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)12月に改造移築し、さらに享和2年(1802)6月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て8面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、自由に回転できる8角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宗版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。
平成22年3月 建設
東京都教育委員会
参考Webサイト
増上寺
黒門(旧方丈門)
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
東京都港区指定文化財
増上寺旧方丈門(黒門)
慶安年間(1648~1652) 3代将軍家光公の建立・寄進と伝えられ、現在の御成門交差点周辺一帯にあったという増上寺方丈の表門(旧方丈門)であった
三解脱門(三門)が朱漆塗であるのに対し、黒漆塗であったので黒門と呼ばれたとの由
方丈は、明治になってから、北海道開拓使仮校舎や海軍施設として使われた後 芝公園などとなった際に、旧方丈門(黒門)は鐘楼堂脇に移築され、さらに、昭和55年(1980)善導大師1300年遠忌に
現在地の三解脱門南隣に補修・移築され、増上寺の通用門として使われている
参考Webサイト
増上寺
増上寺旧方丈門(黒門)港区役所サイト
圓光大師堂
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
圓光大師堂
この御堂は平成23年(2011)宗祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第86世中村康隆猊下と当山法主第87世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執事長が後を襲ぎ、平成18年11月25日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ちに「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成21年9月に竣工しました。
圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向拝軒唐破風付、間口4間(約8メートル)、奥行は裏堂を含み8間(約13.5メートル)、高さ9.5メートルの御堂です。
参考Webサイト
増上寺
圓光大師堂表門
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板 (港区教育委員会案内板)
港区指定有形文化財
建造物 増上寺景光殿(旧広書院)表門
桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)です。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していましたが、建築当初の位置は明らかではありません。現在地には昭和53年(1978)に移築されました。
正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋が刻まれ、側面の蟇股は内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっています。また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付されます。
虹梁絵様の形は17世紀末から18世紀前期の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似しています。徳川家光次男、甲府宰相綱重(1644ー78、法名清揚院殿)は、宝永2年(1705)に伝通院から増上寺に改装されており、この門も近い時期に建てられたと考えられます。
本建築は、徳川家菩提寺として隆盛を誇った増上寺の往時の華麗さを伝える数少ない遺構の1つとして貴重です。
平成17年10月25日
港区教育委員会
補足
港区の文化財登録上の名称は、上記のとおり「増上寺景光殿(旧広書院)表門」であるが、「景光殿」は平成21年(2009)に「円光大師堂」に建て替えられた。また、圓(円)光大師とは浄土宗宗祖の法然上人のこと。
参考Webサイト
増上寺
増上寺景光殿(旧広書院)表門港区役所サイト
水盤舎 (元甲府宰相綱重御霊屋水屋)
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内標柱
港区の文化財
水盤舎
元は清揚院(3代将軍徳川家光の3男・6代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。
補足
港区の登録有形文化財(建造物)
参考Webサイト
増上寺
大納骨堂(舎利殿)
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
昭和8年(1933)に建立され、戦災の難を逃れた数少ない鋳造物で、昭和55年(1980)に現在地に遷座
御本尊は高村光太郎作をもとにした地蔵尊像
参考Webサイト
増上寺
貞恭庵
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
貞恭庵 (ていきょうあん)
幕末の劇的な時代を生き抜いた徳川家14代将軍家茂公正室、皇女和宮さまゆかりの茶室。昭和55年(1980)に移築・改修されました。その際に和宮さまの戒名「静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉」から「貞恭庵」とつけられました。
4畳半の2間の茶室からなる建物です。増上寺では和宮さまの遺品と伝えられている袈裟、琴、手紙、漢詩の書掛軸などを所蔵しています。
参考Webサイト
増上寺
四菩薩像
撮影:2017-11-16
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内標柱
港区の文化財
四菩薩像
向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔て東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下す形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉2年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています
補足
四菩薩像は徳川将軍家墓所の鋳抜門の左前方に安置されている
港区の登録有形民俗文化財
西向聖観世音薩像
撮影:2018-02-12
案内標柱 (港区教育委員会案内標柱)
港区の文化財
西向観音像
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄りがたいところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。
平成4年3月30日
港区文化財総合目録登録
港区教育委員会
増上寺のカヤ
撮影:2018-02-12
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板 (港区教育委員会案内板)
東京都港区指定文化財
天然記念物 増上寺のカヤ (イチイ科カヤ属)
目通り(地上1.5メートルの高さ)直径1.3メートル、周囲約4メートル、樹高25メートルを超える独立樹。推定樹齢600年。
増上寺の建立時の記録をはじめ、現在までに記載された文書はないが、このことはこのカヤが移植されたものではなく、古くからこの地に自生していたことを示すと思われる。区内に自生する自然木として貴重であるばかりでなく、巨樹としても全国的に有数なもんと思われる。
本来カヤは暖帯の植物で、関東地方を自生の北限として分布する針葉樹であり、分布の北限に近い港区内にこの大きさで残存していることは、貴重である。
昭和55年11月15日
東京都港区教育委員会
熊野神社
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
案内板
熊野三所大権現宮(ゆやさんじょだいごんげんぐう) 由来記
増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。
御神体は
熊野本宮大社 家津御子大神(ケツミコノオオカミ)
熊野那智大社 大己貴命(オオナムラノミコト)
熊野速玉神社 伊弉諾尊(イザナギノミコト)
以上の3御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により 「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭礼は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。
大本山増上寺熊野みこし講
熊野みこし講創立40周年記念碑建立趣旨
西暦1974年(昭和49年) 故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。
増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願い
みこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。
江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身を持って奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。
平成26年4月吉日
大本山増上寺 熊野みこし講
め組殉職者供養碑
撮影:2018-02-12他
所在地
東京都港区芝公園4-7-35
熊野神社の三解脱門側に隣接してある
左(上)写真の右石柱に「自享保元年引続」と刻まれており、1716年に建立された「め組」供養碑
右(下)写真の供養碑には「南無阿弥陀仏」と彫られている