新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
沿革
撮影:2018-05-12
所在地
東京都千代田区千代田1-1
旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を整備のうえ、皇居附属庭園「皇居東御苑」として、昭和43年(1968)10月1日から、宮中行事に支障のない限り、公開されている。
詳細は、次の宮内庁サイトをご覧下さい。
参考Webサイト
東御苑 宮内庁サイト
大手門
撮影:2018-05-12
案内板
大手門
大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。
大きい方の門は、昭和20年(1945)4月の空襲で焼失し、昭和42年(1967)に復元されました。
焼失前の門の屋根に飾られた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。
平川門
撮影:2018-05-12
案内板
平川門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使われていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。
また、城内で罪人や死人が出ると、この門から出されたといわれています。
小さな脇門は、平川濠の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。
本丸中之門石垣
撮影:2018-06-24
案内板
本丸中之門石垣
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。「本丸中之門石垣」修復工事は、平成17年8月から平成19年3月にかけて行いました。
修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にしました。
石垣には、江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれています。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていました。
富士見櫓
撮影:2018-05-12
案内板
富士見櫓
「櫓(やぐら)」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。
かって江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。
富士見楼は、明暦の大火で(1657)で焼失しましたが、その後間もなく再建され、天守の代用としても使われていました。
将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めたといわれています。
富士見多聞
撮影:2018-05-12
案内板
富士見多聞
「多聞(たもん)」は、長屋造りの防御施設です。江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。
現在の富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられています。「御休息所前多聞」とも呼ばれています。
天守台
撮影:2018-05-12他
案内板
天守台
徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607)、元和度天守(1623)、寛永度天守(1638)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上から高さが約58mあったといわれています。
この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659)に築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。
江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。
本丸御殿
撮影:2018-05-12
案内板
江戸城本丸御殿
天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が建ち並んでいました。本丸御殿は、表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)という3つの空間に分かれていました。
表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。
桃華楽堂
撮影:2018-05-12
案内板
桃華楽堂
香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966)に完成しました。
屋根はテッセンの花弁を象(かたど)り、8つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ 日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。
汐見坂
撮影:2018-05-12他
案内板
汐見坂
徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。
この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられていました。
梅林坂・汐見坂間石垣
撮影:2018-06-24
案内板
梅林坂・汐見坂間石垣
【概要】
皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。そのうち「梅林坂・汐見坂間石垣」修復工事を平成14年7月から平成17年3月にかけて行いました。
修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の現状に復元することを目標にしました。
石垣の築造は明暦2年(1656)から始まりましたが、翌年「明暦の大火」が発生したために、大きな影響を受けたと思われます。今回石垣の裏側からは大量の屋根瓦などを出土しました。
【二重櫓(やぐら)】
梅林坂側の石垣角にあった二重屋根の物見櫓。別名「汐見太鼓櫓」とも呼ばれています。二重櫓部石垣(地上高さ約11m)内に、瓦破片が約8m弱の厚さで充填されていました。瓦片はほとんどが焼けて赤く変色したり、熱で溶けていました。
【東照社石垣】
石垣が築造される以前に、ここには徳川家康を祀った東照社が建てられており、地中部分は東照社の石垣を利用していることがわかりました。この部分はそのまま再利用しました。
参考Webサイト
石垣修復工事に関する様々なデータをWeb-GISで管理する新システムを開発、実用化 大林組サイト
梅林坂
撮影:2018-06-24
案内板
梅林坂
この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことから「梅林坂」の名が付いたといわれています。
現在は 約70本の紅白の梅が植えられており、12月から2月まで花が楽しめます。
諏訪の茶屋
撮影:2018-05-12
案内板
諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、元々、明治45年(1912)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。
その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。
昭和43年(1968)に現在の場所に移築されました。
二の丸庭園
撮影:2018-05-12
案内板
二の丸庭園
江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、3代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。
現在の回遊式の庭園は、昭和39年(1964)に、9代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。