新設:2019-07-01
更新:2022-11-13
良玄寺
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町新丁(しんまち)180
案内板 (大多喜町案内板)
良玄寺 浄土宗
天正18年(1590) 10万石の領主として大多喜へ入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良心寺を建立して、下総小金(現、松戸市)東漸寺の僧了学を招き開山とし、寺領に100石を寄進しました。
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の翌年に 忠勝は伊勢桑名へ移封となり、2男の忠朝が5万石で大多喜城主になりました。元和元年(1615) 忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名をとって 良玄寺と改めました。
この寺を開いた了学は、のちに、飯沼弘経寺(現、水海道市)を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。そののち 寛永9年(1632) 了学は、徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺17世となりました。
寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、特色ある武将の像としてすぐれた作品であり、県指定文化財になっています。
また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠朝の五輪の墓碑や寺領寄進状などは、町指定文化財となっています。
平成2年3月
大多喜町
本多忠勝ら墓碑
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町新丁 良玄寺墓域
中央の本多忠朝五輪塔の後方にある墓碑銘に 右から縦書で次の通り刻まれている
見星院殿蓮譽光信大禅定尼
大多喜城主本多中務大輔忠勝侯奥方
慶長十八年九月十四日大多喜城内に於て卒去
西岸寺殿前中書長譽良心大居士
大多喜城主本多中務大輔忠勝侯
慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳
三光院殿前雲州岸譽良玄大居士
大多喜城主本多出雲守忠朝侯
元和元年五月七日大阪夏の陣に於て戦死行年三十四歳
忠勝公園
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町新丁 良玄寺境内
案内板
忠勝公園
大多喜城主となった本多忠勝は、文禄4年(1595) 下総小金(松戸市)東漸寺の住職了学上人を招いて、菩提寺良心寺を建立し、寺領として100石を寄進した。
墓地には本多忠勝、同夫人、次子忠朝の墓がある。忠勝は慶長15年(1610)63歳で桑名、また一説には江戸で没したともいわれ、桑名浄土寺に葬られたが、分骨して建立したものである。
忠勝夫人は、忠勝が桑名へ転封後も この地に残り、慶長18年(1613) 大多喜城で没したと伝えられている。
忠朝は、大阪夏の陣で壮烈な戦士をとげ(時に34歳) 大阪一心寺に葬られたが、分骨しここに埋め、その法号により 良心寺は良玄寺と寺号を改めた。
現在もこの墓所は、町指定文化財として残っており、平成17年3月墓所に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として、地域住民に親しまれ今日に至っている。
(「大多喜町の歴史と史蹟」より)
大圓寺 (大円寺)
撮影:2019-06-13
所在地
千葉県夷隅郡大多喜町新丁(しんまち)178
案内板 (大多喜町案内板)
光明山祇園院 大圓寺 浄土宗
大圓円寺は 大永(1522) 正蓮社天誉存公上人により開山、本多氏在城の頃焼失、元禄年間に再建され、本堂・庫裡なども整っていたそうです。
戦後、台風のため良玄寺のお堂が倒壊。時、養老院建設用地に大圓寺が上り、良玄寺境内に曳家して両寺のお堂とした。昭和の終わり頃より、お堂の分離再建の声が高まり、平成5年現本堂が再建されました。
藤棚は街並整備によるもので5月の花は見事なものです。墓地の入口には、寛文4年(1664) に造られた美しい石造阿弥陀如来立像があります。高さ1.43メートルで、この石仏は、地方では珍しい江戸初期の優作で町指定の文化財になっています。
また、「荘司起く(しょうじきく)」の碑が墓の上に建てられています。起くは旧姓野々宮といって、明治期の著名な女流作家樋口一葉の友人でありました。一葉は起くの紹介で半井桃水に小説の手ほどきを受けて、世に出たといわれています。
起くは大多喜興業学校(大多喜女子高等学校の前身)の校長荘司※太郎と結婚し、自らも教師として裁縫や家政を教え、明治43年※太郎の没後、校長となってこの地方の女子教育のみならず宮城県女子師範等に奉職。大阪樟蔭高等学校に在職中53歳で亡くなられました。
平成29年10月
大多喜町
<注>※は 金偏+準で「しゅん」