新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-03-12
所在地
群馬県太田市徳川町甲373-1
案内板 (太田市教育委員会案内板)
永徳寺
本尊 薬師如来
医王山和光院永徳寺 天台宗
寺伝によると、天台宗の開祖伝教大師最澄の弟子・宥海上人(ゆうかいしょうにん)によって、大同元年(806)に創建され、関東最初の天台3道場の1つだったという。建久3年(1192)に徳川(新田)義季(よしすえ)が徳川郷に居館を構えると、薬師如来を深く信仰し、当寺を祈願所とした。
徳川家康が江戸城に入った翌年の天正19年(1591)に将軍家先祖発祥の地として、徳川郷450石が全て朱印地とされ、年貢課役免除・守護不入の特権が認められたとき、永徳寺も50石の朱印地を拝領した。
寛永年間に天海僧正が世良田の長楽寺を再興、当寺を天台宗に改宗した際には、永徳寺が長楽寺の末寺100余ヶ寺の筆頭とされ、長楽寺における灌頂(密教で阿闍梨から法を受けるときの儀式)の教授役を、代々永徳寺の住職が勤めることが定められた。歴代受けつがれてきた蓮華流灌頂の巻物35巻が当寺に保存され、中世の写本と推定される7本を含むそれら貴重な伝法関係聖教文書は、『群馬県史・資料編5』に全文収録されている。
江戸時代、元禄、宝永など度々利根川の洪水にあって、寺地も何度か移転したが、文化14年(1817)には火災によって堂宇ことごとく焼失したため、長楽寺は円雄を住職として派遣し、永徳寺の再建にあたらせた。円雄は、文政6年(1823)に寺社奉行より本堂再建助成のため、上野、武蔵2ヶ国の勧化(寄付をつのる)許可を得て奔走し、2750両余の浄財を集め、弘化2年(1845)に本堂・庫裡・諸堂・築地石垣等の造営をなしとげた。かって、境内にあった権現堂(徳川家康を祀る)は、大正13年(1924)に徳川東照宮の拝殿として移された。明治41年
徳川河岸にあって船頭たちの守本尊とされてきた不動様の御堂を移築した。
本堂脇に現存する子育地蔵堂の本尊は、子どもの病を治す地蔵様として信仰を集めてきた。また、境内には利根川に身を投じた相思相愛の心中者を共に葬った「比翼塔」が2基あるのが注目されるが、いずれも男女のよりそう姿が浮きぼりになっている。
永徳寺の文化財
市指定重要文化財
国境争論幕府裁許絵図・裏書
正田家30代当主・隼人源義芳筆杉戸絵(53枚)
平成元年3月
太田市教育委員会
参考Webサイト
永徳寺 徳川発祥の地(太田市) 群馬 WEB GUNMA サイト
永徳寺の国境争論幕府裁許絵図・裏書 太田市教育委員会サイト
永徳寺の杉戸絵 太田市教育委員会サイト