新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-03-12
所在地
群馬県太田市世良田町3119-6
案内板 (太田市教育委員会案内板)
長楽寺
新田氏の祖義重の子徳川義季を開基とし、日本臨済禅の祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久3年(1221)に創建された東日本最初の禅寺(東関最初の禅窟)である。ただし、禅の専門道場ではなく、顕教密教を兼修したので、三宗兼学の寺として知られた。
創建当時は、広大な境内には塔頭子院が軒を並べ、500を超える学僧が止宿して研学修行にはげんだ。その中には入宋したものも多く、これらを含めて当寺出身者は全国に禅風を挙揚し、日本仏教史に重要な地歩を占めた。聖一国師・神子栄尊・無住一円・一翁院豪・月船深海その他枚挙にいとまがない。
新田氏を始め関東武士の崇敬も篤く、周辺の庶民にもその教化は及び、その思想的影響ははかり知ることができない。室町時代の初期に、日本十刹の制が成立すると当寺もその一つに数えられた。戦国時代末期になると、寺運は著しく衰退した。
天正18年、徳川家康は小田原北条討滅の功により、秀吉より関東の地を与えられた。家康は長楽寺の現況を嘆いて、天海僧正をその住職に任じて、祖先開基の寺の復興にあたらせ、寺領100石を与えた。天海は当寺を臨済宗から天台宗に改め、境内を整備し、伽藍を修復し、末寺700有余か寺を擁する大寺院に成長させた。天海は同時に日光輪王寺住職でもあったので、日光東照宮が改築されるにあたり、元和造営の社殿の一部を長楽寺の境内に移し、東照宮を勧請した。幕府は社領として200石を与え、長楽寺をその別当寺として管理と祭祀にあたらせた。
しかし、明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、荒廃の悲運に際会せざるを得なかったが、最近多くの人々によって、その歴史的価値が認識され、各方面の努力を得て復興の曙光を仰ぐに至った。
長楽寺の文化財 史跡「新田荘遺跡」長楽寺境内
国指定重要文化財
建造物 石造宝塔
県指定重要文化財
建造物 勅使門・三仏堂・太鼓門
昭和62年3月
太田市教育委員会
参考Webサイト
長楽寺の概要と関連する指定文化財一覧 太田市教育委員会サイト
三仏堂・太鼓門
撮影:2018-03-12
所在地
群馬県太田市世良田町3116-3(三仏堂)
長野県太田市世良田町3119-6(太鼓門))
案内板 (太田市教育委員会案内板)
群馬県指定重要文化財 長楽寺三仏堂及び太鼓門
指定年月日 昭和57年4月20日
三仏堂は、長楽寺の中心的な建物であり、慶安4年(1651)に3代将軍徳川家光の命により再造され、数回の修理(最終的には昭和59年の解体修理)を経て現在に至っている。桁行5間、梁間4間、1間の向拝付寄棟造、東向き総丹塗、屋根はもと茅葺であったが、明治9年瓦葺、昭和59年銅平板葺に改めた。建物の仕様は、外部の正面両隅間を中敷居入りの窓とし、竪連子を組み込み明障子付杉戸引違、中央を四ツ折桟唐戸両開きとし、内・外陣境の両脇間を格子戸引違に、両側面の前より第1、第2間を板戸引違とし、明障子を設け、第3間を板壁とする。
内陣須弥壇上に向って右より、 釈迦如来(像高2.2メートル)・阿弥陀如来(像高2.53メートル)・弥勒菩薩(像高2.24メートル)の3躯を安置する。3躯はいずれも木造寄木造の坐像で、右から順に、過去・現在・未来をあらわし、3世仏と呼ばれる。釈迦如来坐像および弥勒菩薩坐像の胎内には次の銘あり。
[釈迦如来坐像内に置かれた銘板の造立銘]
奉造像釋迦如来一躰
本 願 圓義僧正
藤原姓鍋嶋氏攝津守直之
右信心壇越
武運長久壽命長遠子孫
繁昌㫖仍造像意趣如件
寛文十庚戌暦十二月五日
奉行 義白法師
大仏師 民部法橋
[弥勒菩薩坐像内写経末尾銘]
辛亥
自至寛文十一歳五月十八日一夜書終
武州住 施主 七郎兵衛
亡父 念誉浄真偽菩提書終
太鼓門は、鼓楼ともいわれ、三仏堂の西に隣接して立ち、様式手法等により江戸時代初期のもので、その後、三仏堂同様に修理を経て現在に至っている。
桁行3間、梁間3間、袴腰付、入母屋造、銅瓦葺、東向き、中央一間扉構、上部は四周に縁をめぐらし、高欄が付く。正・背面の中央間に火灯窓、嵌板に華麗な彩色透彫文様を施す。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図にに使用した。
平成19年(2007)3月
太田市教育委員会
参考Webサイト
長楽寺三仏堂及び太鼓門 附 棟札 太田市教育委員会サイト
開山堂
撮影:2018-03-12
宝塔 (重要文化財)
撮影:2018-03-12
所在地
群馬県太田市世良田町3119-4
案内板 (太田市教育委員会案内板)
国指定重要文化財 宝塔
指定年月日 昭和36年3月23日
ここは長楽寺の開基徳川次郎義季を初め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、前方後円墳の後円部にあたり、古くから文珠山と呼ばれている。
この宝塔は凝灰岩で、相輪は失われているが、現存部の高さ1メートル65センチである。屋蓋、軒口の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に鎌倉時代の特色を良く現わしている優秀な石造宝塔である。
昭和6年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に
敬白
奉造立多宝石塔
右所造立如件
建治二年丙子十二月廿五日 (1276)
第三代住持比丘院豪
との銘文が刻まれているのが発見された。
塔の建立者院豪は寛元年中(1243~1246)に宋に渡った。正嘉2年(1258)長楽寺第3世となり、以来24年間住職であった。
弘安4年(1281)長楽寺で没し、その後「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。
昭和53年3月
太田市教育委員会
参考Webサイト
長楽寺宝塔 太田市教育委員会サイト
長楽寺勅使門
撮影:2018-03-12
所在地
群馬県太田市世良田町3116-3
案内板 (太田市教育委員会案内板)
群馬県指定重要文化財 長楽寺の勅使門
指定年月日 昭和32年4月23日
この門は、江戸時代東照宮の正門ともいわれた。勅使または幕府の上使が参拝するときにのみ使用され、それ以外は開かれることがなかった。そのため、「あかずの門」ともいい、俗に「赤門」ともいわれる。
建築年代は、はっきりしていないが、東照宮が遷宮された寛永21年(1644)と同時代に造られたものと思われる。東照宮に残っている修理棟札を見ると、この門は、上使門とも呼ばれており、東照宮付属の建物として、徳川幕府の手により修理が行われていた。神仏分離政策により明治8年、長楽寺、東照宮が分離された時、長楽寺に所属したものである。
門の造りは、銅板葺四脚門、本柱・控柱(ひかえばしら)ともに円柱である。軒は二軒半繁垂木(しげだるき)、正面の控柱には頭貫(かしらぬき)を渡して、その中心に割束(わりづか)をもって丸桁(がぎょう)を支えている。側面は頭貫上に割束を立て、虹梁(こうりょう)を支え、その上に大瓶束(たいへいづか)を立てて棟木を支え、また、かぶら懸魚(げぎょ)を用いている。
昭和43年に、解体修理をした時に、保存上から、位置を約2メートル西へ移した。
昭和53年3月
太田市教育委員会
参考Webサイトほか
長楽寺勅使門 太田市教育委員会サイト
「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」世良田東照宮刊
渡月橋と蓮池
撮影:2018-03-12
所在地 太田市世良田町3116-3
渡月橋が架けられている蓮池は、長楽寺の住持義哲西堂の永禄8年(1565)の日記(永禄日記 県指定重要文化財)に記載され、承久3年(1221)長楽寺創建当時の遺構の一つで、心字池とも呼ばれるという。
渡月橋は、元は木橋であったが、寛政8年(1796)石橋に改められた。
なお、訪問時は、池の水が抜かれていた。
参考Webサイト
紙本墨書永禄日記 太田市教育委員会サイト