新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-03-12
所在地
栃木県鹿沼市石橋町1534
案内板 (中央地区コミュニティ推進協議会案内板)
薬王寺
真言宗智山派の寺院で弘長年間(1261~1264)の創建といわれる。
徳川家康が元和2年(1616)4月17日に死去、翌3年3月久能山から日光山に改葬されたとき、遺骸がこの寺に4日間逗留し、それらを記録した「渡御之記」が寺宝としてある。
本堂向拝・欄間には石塚知興(ともおき)の彫刻や、刀匠として有名な細川家の墓などもある。
(石橋町)
中央地区コミュニティ推進協議会
薬王寺縁起碑
薬王寺縁起
当山は、医王山阿弥陀院薬王寺と称して真言宗智山派の寺院です
鎌倉時代 亀山天皇の御代 弘長年間(今を去る700余年前)の創立で、御本尊は薬師瑠璃光如来です。伝教大師の御作で、昔時より、霊験あらたかな御本尊として
33年に1度 開扉されます.
江戸時代 後水尾天皇 元和3年(今を去る250有余年前) 僧正俊賀の時、徳川家康公の遺軆を 日光山に移埋する途次、4日間 滞在せられ、また、天海僧正
3代将軍家光公入柩の際も、その止宿となりましたので、当寺の名は全国に知られ、門末も26ヶ寺を有し、御朱印そのた除地も幾多寄進されました。
今日、当寺に伝わる「今道記」は、その時の有様を記しております。その後、幾多の歳月を経、現在に至るまで、法統連綿として実に28世を数え、この間記すべき事蹟も多くありましたが、寛文3年(今を去る300有余年前)回禄之災にかかり、堂宇尽く烏有に帰しました。現在のものは、その後再建されたものです。
昭和47年8月 盂蘭盆会之砌
補足
家康公の遺軆を、日光山に移埋する途次、薬王寺に4日間滞在し、また、天海僧正、3代将軍家光公入柩の際も、その止宿となった背景は、薬王寺から提供を受けた次の情報が理解を助けてくれる。
- 当時の6代目住職俊賀が天海僧正と交流があった
- 俊賀は真言宗智山派の総本山智積院の3傑1人であった
- 後に、真言宗の触頭になった
- 江戸愛宕山円福寺の住職になった
触頭=江戸時代、寺社奉行から出る命令・交渉の事をつかさどった寺院
なお、当薬王寺は、日光街道の宿場町としての町繁栄の中心となったという。
参考Webサイト
真言宗智山派薬王寺 薬王寺サイト
鹿沼の彫刻屋台 鹿沼市観光物産協会サイト
家光公宝塔(鎧塔)
撮影:2018-03-12
所在地
栃木県鹿沼市石橋町1534 (薬王寺墓域前)
鎧塔案内碑
大猷院殿宝塔(鎧塔)
徳川3代将軍家光は、慶安4年(1651)4月22日に死去、遺言により祖父家康と同じ日光山に葬られ、 大猷院廟が建立された。
大猷院は、家光の諱である。家光日光遷霊の記録である薬王寺寺宝の「大猷院殿渡御之記」に4月27日、薬王寺に神霊宿泊の記述がみられる。初代将軍家康も日光遷霊の際に薬王寺に宿泊しているので、その由緒により、境内に東照宮社と大猷院御宝塔が建立された。境内古絵図によると、本堂の左(南)側奥に、東照宮社と大猷院殿宝塔が位置している。宝塔は日光大猷院廟にある家光を埋葬した宝塔を模して建立されたと思われる。
御廟の宝塔は、現在唐銅製であるが、当初は石造八面宝塔で、天和3年(1683)の地震で倒壊し、その遺構は、今も現宝塔の八角形を石造基壇として残っている。
薬王寺の石造宝塔も、基壇・基礎・塔身の側面と笠の上面を八角とし、上に相輪をのせる八角宝塔である。凝灰岩製で、高さ1.8メートル、塔身が膨らみ、鎧の形に似ているので、鎧塔と通称されていた。
明治維新の、神仏分離により、東照宮は除去され、宝塔も覆屋がなくなり、風化が進んだ状態で推移した。
平成12年弥生吉日
柳田芳夫 撰文
豊田孝一 書之
補足
本鎧塔案内碑の碑文は、薬王寺住職倉松俊弘氏からご教示頂きました。厚く御礼申し上げます。訪問時に碑面を撮った写真では碑文を読み取ることが難しかったので教示頂いたもの
参考Webサイト
真言宗智山派薬王寺 薬王寺サイト